製本かい摘みましては(95)

四釜裕子

ステンレスのキッチンテーブルを捨てた。10年くらい前に中古で買って、切ったり貼ったりの作業台として使ってきたが、表面の冷たさに手足が耐えられなくなってしまった。丈夫だしきれいだしで、しばらくもらい手を探したけれど折り合いつかず、もう、いいよねと、捨てたのだった。なくなってみると、3つの引き出しと足下のスペースの収納力がいかに大きかったかに驚いた。元材木屋がはじめた家具屋で、同じくらいの大きさの机と似たような収納力のある引き出しを作ってもらって、おかげで触れた手足の冷たさにビクッとすることはなくなった。このひやっとした感じには、古い覚えもある。

小学校の入学祝いに買ってもらったスチール机だ。高さ調節ができて蛍光灯がついていて、前面にはカレンダーと時間表、上は本棚、右に引き出し、左にランドセルをかけられるようになっていて、囲まれる感じが自分だけの小さなお城みたいでうれしかった。当時はあれが流行で、しかも年々付属品が増えて派手になっていたのだと思う。近所のおねえさんたちとの雨の日の遊びの”基地ごっこ”で、この机が餌食になることがあった。まわりに食堂の椅子まで持ち込んで全体に毛布をかぶせたり段ボールで囲ったり、私は最後に招かれて、色水でつくったジュースをのまされて落とし穴にはめられたりした。廊下の隅の足踏みミシンも別の基地になっていた。

建築家の坂口恭平さんは子供の頃、六畳一間の子供部屋にA4サイズの方眼紙に書いた地図を敷き詰めて手づくりRPGゲーム「サカグチクエスト」を作ったり、コクヨの学習机の下に潜り込んで毛布をかけて自分の巣を作ったそうである。『ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる』(小出由紀子編集 平凡社コロナ・ブックス 「ヘンリー・ダーガーという技術」)で読んだ。狭い団地生活を反転させるための独立国家をつくろうとする試みだったと書いている。そうそう、そうだったんだよね。なんて思ったこともないくせに、いや、でも確かにそういう感じだったのかもしれない、などと言ってうなずきたくなるほど、坂口さんはうまいことをおっしゃる。うちの机もコクヨだったのだろうか。

スチール机がシールや天地真理やサンリオでいっぱいになったころ、父親が木製の古い大きな机を2つもらってきた。姉も私もスチール机からすぐにのりかえた。選ぶまでもなく、両袖机は南側にある姉の部屋に、片袖机は北側にある私の部屋に運ばれた。私は部屋のドアに黄緑のクレヨンで「じょおうさまのへや」、窓の木枠にはカッターで「eternity」、落書きや改造は格下の部屋での暮らしを反転させるための試みだったに違いない。姉に続いてやがて私も家を出た。小さなワンルームで暮らしながら、いつか両袖机を自分の部屋で使いたいと思うようになった。数年たって願いが叶った。分解して宅配便で送ってもらったら、記憶の中にあったものより数段大きくて焦った。泥棒に入られて何か一つだけ家具を残してやると言われたら、この机を残すだろう。