「ライカの帰還」騒動記(その3)

船山理

昭和64年。すっかりクルマ業界にも慣れ、数年前にホリデーオート誌で副編集長になっていた私は、月に1度開かれる管理職会議で思わぬ展開に遭遇する。そのときの会議のテーマは、今後の新事業の展開についてだったのだけれど、林社長はいきなり「コミックの専門セクションをつくる」と切り出したのだ。え? である。この騒動記の最初に書いたように、ボクは過去に林社長の命を受けて「コミック編集部設立の可能性」についてレポートを提出し、ムリですよと言った経緯がある。何で今ごろ蒸し返すかな。

林社長は「ということで、コミックに詳しい船山クンに是非とも検討を願いたいと思うのだが」と、ボクに向かって言う。当然のことながら、一同の目がボクに集中する。あちゃちゃ。そういう話だったら、何で事前に話しといてくれないかなぁ。いきなり検討しろと言われても、メチャクチャ困る…。それでも何も言わないわけには行かないので、ちょびっとイヤ味を交えて、ボクなりの意見を述べさせてもらった。

「ホリデーオート誌は、皆さんのご協力も得て実売り部数は安定を保っております。が、予断は許さない状況に変わりありません。かつて10数年前…ですか、社長からウチの会社でコミック雑誌の設立は可能か? というリサーチを仰せつかり、様ざまな観点と諸事情から、次期尚早であると報告させていただきました」ここで、一同、そんなことがあったの? という目をボクと林社長に交互に向けた。そうなんだよ〜、聞いて下さいよ。

「正直申し上げて、あのときと現在の状況は、まったく変わるところはないように思えます」ここで林社長の眉毛が片っぽ、ピクンと上がった。「…ですが、検討せよというお話ならば、ひとつだけ可能性として、こういうカタチならあり得るのでは? という意見を述べさせていただきます。先年、ホリデーオート誌で『I CAN C!』という全12話のコミックを掲載し、まずまずの評価を得ることができたと思っています。このように当社で発行している出版物に、その雑誌に見合ったコミックを製作し、供給するという専門の部署をつくることです」

「これならコミック雑誌を新たに立ち上げる際の膨大なコスト、そして人員も大幅に削減できます。もちろん掲載する雑誌の編集部の同意を得ることが必要ですが、専門誌に掲載する以上、他のコミック誌では読めないオリジナルな作品が期待できること、また母体があることで読者の反応が読みやすいこと、それにより単行本化への判断が下しやすいといったメリットがあると考えます」前から考えていたわけじゃないけど、やるとしたらこんな方法しかないよ、と言ったまでだけれど、会議室はシ〜ンと静まり返ってしまった。

ややあって、林社長がポンと沈黙を破った。「皆んなはどう思ったかな? 私はいいんじゃないかと思う。そのカタチで来年の春に行けるかどうか、さっそく役員会議にかけてみよう」来年の春だぁ? 言い忘れたけど、この会議はその年の年末に近い。その後、役員会議とやらではトントン拍子に話が進んだらしく、しばらくしてボクは役員室に呼び出された。主旨は以下のとおりだ。来年、4月1日をもってコミック編集部を設立する。その際に編集長を務めること。ボクの後任を含めて人事に意見があるなら聞いておく。あとは会社に一任すること。ひぇ〜、である。

「と、いうわけなんだけどさぁ…」困ったときの相談相手は、小学館のいつもの友人だ。図らずもコミックという自分のフィールドにやってくることになったボクに、彼は鷹揚に言う。「だ〜いじょぶ。わかんないことはオレに訊け。ぐふふっ」ぐふふ、じゃないよ。でもヨソの会社のことなのに、親身になって話を聞いてくれるのは、すごく有難いし頼もしかった。「で、とりあえず、会ってほしいヤツがいるぞ」彼は、いきなり作家さんを紹介してくれると言うのだ。

てっきり小学館系の人なのだと思っていたけれど、紹介してもらうことになったのは、何と彼のライバル会社の講談社系だと言う。しかも小石クンというその作家さんは、講談社ではかなりハードルの高い「ちばてつや大賞」を受賞した新人だというではないか。え? なんでそんな人が? 講談社は何してるの? 事情を訊いてみると、けっこうフクザツだ。小石クンを大賞に押したのは、講談社のある雑誌の編集長なのだけれど、社内の派閥抗争に敗れて失脚し、現場を離れてしまったという。

その後、新体制となった編集部では、失脚した前編集長が選んだ新人を使おうというムーブメントが消え失せてしまい、普通ならば前途洋洋だったはずの小石クンを、宙に浮かせてしまったというのだ。作家さんが「描きたい」というパッションはナマモノだから、それが薄まらないうちに活動してもらわないと、実にもったいない。そこに小学館の友人が救いの手を差し伸べたというわけだ。ところがタイミングが悪すぎた。

当然ながら小学館でも新人賞受賞作家はいる。その受賞者にしたところで、すぐに連載ページが用意されるわけではない。人気雑誌は人気作家で埋め尽くされているのだから、新人作家が割って入るには、既存作品の連載が終了するといったチャンスがないと、うまく滑り込めないのだ。せっかく救いの手を差し伸べたものの、小石クンに待ってましたとページを与えられる雑誌は、小学館にもなかった。

そこで小学館の友人は、小石クンに「専門誌だけどさー、きっと自分の描きたいものが描けるよ。ウチに空きができるまで、悪いけどそこでやっててくんない?」と言った(らしい)。まー、いいんだけどね。こっちにしたって、講談社の新人賞作家に描いてもらえるチャンスなんて、クスリにしたくたってあるわけがないのだから。

紹介してもらった小石クンは、人なつっこい爽やか系の人で、絵柄を拝見させてもらった後、彼の好みも加えて「バイクもの」を月刊オートバイ誌に描いてもらうことになった。さっそくプロットを考えてもらい、それが出来上がったところで打ち合わせしてシェイクダウン。これをオートバイ編集部にプレゼンし、編集部の意向も反映させながら細部に修正を加えて行くというわけだ。もちろん編集会議にはボクもオブザーバーとして出席させてもらい、現在の月刊オートバイの読者傾向、ブームなどをこちらも学習する。うん、何となく仕事らしくなってきたぞ。

さて、しずしずと動き出したコミック編集部だけれど、会社は編集部員としてひとりだけ回してくれた。ところが回されたのは、どこの編集部でもダメを出されたという、いわくつきの男だったので、まったくアテにならない。スタッフは事実上ボクひとりである。だからと言って、編集部として機能するには連載1本だけではカッコがつかない。せめてあと1つ2つは連載を立ち上げないと、社内で存在を認めてもらえない。ちょっと焦る。

次のターゲットは、月刊カメラマン誌だ。ここの編集部には1年だけ在籍したことはあるけれど「カメラもの」のコミックは、ちょっと想像がつかなかった。「バイクもの」と違って、あまり前例がなかったこともある。あれやこれやと考えているうち、ふと親父のことを思い出した。親父は朝日新聞社で定年まで出版写真部長を務めた報道カメラマンだ。太平洋戦争では海軍で学徒出陣し、父親から大学の入学祝にもらったライカを首にかけたまま、沈没する空母から脱出したというエピソードを、子供のころ聞いたことがある。

これってコミックになるのでは? 退職後はブラブラしているはずの親父を訪ねて実家に出向き、ざっくばらんにお伺いを立ててみることにした。コミックは新聞連載の『クリちゃん』と『サザエさん』くらいしか知らない親父だったけれど「うん、お前が原作やるならいいぞ」と言ってくれたので、さっそく取材にかかる。親子と言っても、自分の仕事のことは語りたがらなかった親父だけれど、戦後、朝日新聞社に入社してからのエピソードには、ホントかよ? と思うようなものがいっぱい聞けた。

これは行ける! 直観的にそう思えたこともあり、3〜4話分をいっきに書き上げて、冒頭にシノプシス(粗筋)を加えたものを小学館の友人に見てもらうことにした。彼の第一声は「こんな話、どこで拾ってきたんだ?」であり、いつになく厳しい目でボクを見る。いや、これウチの親父の実体験なのよ、と言うと、しばし目をむいている。そして「誰の絵を想定して書いた?」と訊くので、石川サブロウさんだよと、正直に言った。石川さんは小学館の作家ではない。集英社「少年ジャンプ」の新人作家さんである。

石川さんは『北の土龍』という画学生が主人公のコミックを描いていて、この作品はボクのお気に入りだった。さすがに他誌の新人作家の連絡先までは知らないだろうと思ったけれど、彼は手帳をパラパラとめくり、紙切れに電話番号を記すと「すぐにアポを取れ。頑張れよ」と言ってくれた。彼も「これは行ける」と思ってくれたに違いない。ボクはその紙切れを丁寧に名刺の間に挟んで、小学館の本社を後にした。歯車が音を立てて回りだした気がしたのだけれど、世の中、そううまく話は進まないことは、後日、身を持って知ることになる。