「想像ラジオ」再び

若松恵子

「文藝」2013年春号は、いとうせいこうの特集で、彼の16年ぶりの中編小説「想像ラジオ」が掲載されている。
同世代の信頼できる発言者として、彼の言葉をいつも楽しみにしてきた。

10年近く前になると思うが、煙草のCMで、きちんとスーツを着た彼の姿が新鮮で目をとめたのがきっかけだった。喫煙者の肩身がどんどん狭くなっていく社会状況のなかで、「私はマナーをまもってきちんと煙草を吸います」というメッセージは、かえって反抗的で良いなと感じてしまったのだった。

「想像ラジオ」については、以前水牛にも書いたことがあるが、3・11後、いとうせいこうがツイッターで行った文字によるラジオ放送だ。文字に喚起されて、音は読む者の想像のなかで鳴る。電気がなくたって音楽を楽しむことはできるぜ!という心意気に、計画停電の頃とても励まされた。
「被災地のみんな、心の被災をしているみんな、こんにちはDJせいこうです。」そんな言葉で放送は始まったのだった。

震災から2年近くたって、小説になった「想像ラジオ」は、「想像」の翼をさらに遠くへ広げるものになっていた。

小説の主人公、DJアークは「赤いヤッケひとつ」で高い杉の木のてっぺんにひっかかっている。どうやら津波で被災して、彼はもう死んでしまったのかもしれないとわかってくる頃から、物語にどんどん引き込まれた。高い杉の木のてっぺんにひっかかっている男、そういう姿を見たという話がどうしても忘れられなくて、そういう心のこだわりが小説を生んだのだろう。木のてっぺんにひとり残された「彼の声」を聴くことができるのだろうか、というのが、いとうせいこうが差し出した問いだ。

「文藝」の特集の中で、いとうは小説家の星野智幸と対談しているが、「想像すれば絶対に聴こえるはずだ」という感覚は衝撃的で、「この言葉が、震災後の文学そのものだったと思う。」と星野は語っている。
いとう自身も「まず僕は被災したわけじゃないから、絶対的な断絶がありますが、でも世界を自分ができる限り真正面から引き受けて、そのかわり全部想像しますからね、という姿勢でした。」と言っている。被災した当事者にしかわからない、だから被災した当事者でないものは語るべきではないのか、という問いはさらに進んで、死者の思いを生者が聴く事(知ること)は無理なのかという問いに広がる。この2つの問いに対して「想像すれば絶対に聴こえるはずだ」というのが、いとうせいこうの答えだ。文字が直接心に音楽を届けたように、想像する力によって、死者であってもその存在を今も傍らに感じることはできるのだ。と。

「聴きたい」と、いとうせいこうは願う。そして「想像ラジオ」が書かれた。DJアークやそのリスナーたちの物語は、幽霊の話ではない。生者は、想像によって死者の思いを聴き、そのことによって死者を自分のなかに入れて生きることができるようになるという事なのだ。死者を遠く離れて生きる者と読みかえることもできる。そして、それは生者このひとりの身で生きるよりも、何て自由で遠くまで行けることなのだろうと思った。