筍の味

植松眞人

ドーナツショップで声高に話す年輩の女性。「おばあちゃん」と声をかけても、決して間違いではなさそうな女性たちだが、きっとそう声をかけると無視されそうな若々しさではある。そんな女性たちが実に軽やかに話題を転がしながら楽しそうに笑っている。

ドーナツを頬張り、カフェオレを飲みながら、洋服の縞模様の話が顔に刻まれたシワの話になり、「目尻の横ジワがなぁ」と嘆く声に「横ジワならええがな。わたしら、縦にシワが出来はじめたがな」と、さほど嫌そうでもなく、むしろ自慢げな声が重なっていく。

どこからどんな道筋をたどったのか、気がつくと話題は筍。
「うちは、筍買うたことがないねん」
「なんでやのん、お金がないわけやなし」
「そくらいはあんねんけど」
 と、ここでひとしきり大笑い。
「京都のな、亀岡に住んでる友だちがいっつも送ってくれるねん」
「そら、買わんでもええわ」
「そやろ、そやからご近所にもわけてあげてな」
「うらやましいわあ。うちも筍大好きやねん。けど、友だちがおらへんもんやから、いっつも自分で買うんやわあ」
「ほな、送ったげるがな」
「いややわあ。催促したみたいな」
「してるがな」
「してるかしら」
と、またここで大笑い。

横で聞いていた私も、この展開にホッと一息ついて「よかったなあ。みんな筍が食べられて」と声をかけそうになってしまう。

「筍って、味せえへんことない?」
と、いままであまり口を開いていなかった女性が別の角度から大きめの爆弾を投下する。
せっかく筍はおいしいという大前提に盛り上がっていた話が、ぎくりと立ち止まる。しかし、そこはそれ、大阪のおばちゃんたちはなんとか話の進路を探っていく。

「筍、おいしいがな」
「おいしいねんけどもやな。なんやほな、筍って、どんな味? 言われたら、うまいこと言われへんことない?」
「いやあ、よう言わんわあ。うまいこと言うよ、私」
「どない言うの」
「さっぱりした中に、春の香りと、ちょっとした苦みがあるいうのかなあ」
 これには、そこにいた一同が大笑いする。
「そらあんた、テレビの見過ぎやわ」
「そやろか」
「そやそや、うまいこと言い過ぎて気色わるいわ」
 言われた本人も涙が出るほど笑っている。
「けど、確かにトマトとか、かぼちゃみたいに、はっきりした味とちゃうわなあ」
「そやな。カツオの出汁をきちんととって、この味が出ました、いう感じやもんな」
「うんうん、そやな」
「そやそや、ということは、おいしい出汁をとっといたら、筍いらんの?」
「そらあかんわ。それやったら、ただの出汁やがな」
「ほんまや、それが筍に染みこんで春らしい味になるんやがな」
と、もう一度笑って、またみんなが笑いながら筍の味を思い出そうとしているようだ。

私は私で、数日前に食べた筍の味を思い出していた。それは居酒屋の突き出しに供されたもので、くたくたになった海藻にからまった状態で表れた。いったい何度温め直したのかと聞きたくなるくらいに濃くなった味付けは、出汁の味も筍の味もせず、ただただ醤油辛いだけの代物だった。

あれを筍の味として思い出すことを私は思いとどまっているのだが、戸惑いながら、あのどうしようもない味を思い出そうともしている。何度も煮炊きされてどうしようもなくなった味の中には、本当に筍の味はなかったのだろうか。もしかしたら、しばらくまともな筍料理を食べていなかったせいで、筍の味そのものを忘れてしまっているだけなのかもしれない、などとも思えてきた。

ここで私は「筍って味せえへん」と言った先ほどの女性に目を向ける。もしかしたら、それが真実なのかもしれない、などと筍を巡って私の思考はぐるぐると回り始める。もしかしたら、隣のテーブルの女性たちの会話の中に、その答の片鱗でも浮かんでいるのではないかと、もう一度、彼女たちの会話に耳を傾けてみる。すると、彼女たちの話題はすでに、牛乳を温めた時に出来るあの膜は、湯葉と同じようなものなのか、ということに移ってしまっていた。

カーレースのサーキットのスタートラインで、エンストしてしまったレーサーのように、私は会話のカーチェイスを続ける彼女たちをぼんやりと見つめるのだった。

2012/04/30