掠れ書き13(音楽という幻)

高橋悠治

音がきこえる時 それはその瞬間に振動している空気ではなく 記憶のなかにあるその振動の結果にすぎない、と言ってみると、それは論理というよりは、確認も証明もできないが作曲の口実にはなるかもしれない、根拠のない一つの主張であり、つかわれている単語の定義やそれらの関係をあいまいにしておくから、もっともらしく見えるだけだと考えることもできる。根拠や定義や真実性を追求しないで、この口実からはじめて、音楽を作っていく過程も、論理の展開ではなく、躓きながら飛躍する飛び石のようなものだろう。

石像のように、空間のなかに確実に存在するものとしてあるように見えても、そこにある石の塊の表面近くに浮かんでいる存在しない幻が、それを像として機能させていると言えるだろうが、音のように固定できない変化そのものであり、それらの変化をさらに変化で置き換えながら続く音楽は、実体のない記憶、存在していなかったものの記憶、思い込みだけに依存する空華となって、根拠も論理もなく、何もない空間からきこえてくる。楽譜や録音された波形図から、音のかたちが眼に見えるように錯覚するばかりか、作曲や、楽譜をもつ音楽の演奏は、錯覚が持続するための装置としか言えないだろう。そうやって提示される音のかたちが聞き取れるというのは、くりかえされる変化、とは矛盾した表現だが、そういう部分が記憶のなかから際立って浮かんで、メロディーやリズムが記憶にきざまれ、響きや音色が背景にまわるような音楽が自然に感じられ、そういうものが個人の幻聴ではなく、集団的幻覚によって音楽と認知される。これは、均一化された集団を対象にしている、近代音楽の場合とも言えるだろう。だが、どんな安定も一時的なもの、はじめに設定すればいつまでもそのままでいいというわけにはいかず、瞬間ごとに問い直し、つくり直しているのに、そのことには注意が向かず、持続する印象がたもたれているのは、なぜだろう。

同一性を基準にして、変化を二次的な要因とするかわりに、まず断続する瞬間があり、そのなかに点滅する音響が、記憶のなかでは同一性までつきつめられず、せいぜい家族的類似性以上には固定できない状態を考えてみると、境界のさだまらない流動が継続するなかで、響きや音色のように定義しにくい複雑な要素がおもてに立って、メロディーやリズムは、不安定なうごき、とらえられない儚い印象に後退する。そういう音楽は退廃的な傾向、文化の崩壊期の兆候と考えられるかもしれない。安定した構造がゆらぐとき、別な考えかた・感じかたが未知の表現をさぐっている、というのは音楽にも社会にもありうる状況だが、別な表現はかならずしも新しさではなく、要素の置き換えと位置の変化がいくつかの層にわかれて循環している結果かもしれない。限られた要素の置き換えでも、それぞれの層で独立に起こり、それらの関連が表面から見えないときは、おなじ状態は二度と起こらないから、複雑で不規則な変化が続くように感じられるだろう。均等な時間のなかで変化のずれが発生するのではなく、状態変化の発生順序を時間として認識するのだとも言える。

音楽の場合の時間や空間はたとえにすぎないかもしれないが、日常生活の時間や空間も、軸や枠や箱のような実体ではなく、偶然のできごとの連鎖を関係付け、整理するため、世界の瞬きに意味付けするための、仮の補助線と言ったほうがいいだろう。意味は論理から導かれるのではなく、まず意味を仮定すれば、そこから論理を導くことができる、といっても、意味自体が仮の足場にすぎないから、その上に組み立てられる論理も一時的なもので、一度使えばそれ以上保存する必要はない、そうだからといって、それなしでは済まされないだろう。変化は同一の見かけの下で継続するが、この場合の同一性は本質ではなく、皮膚のように、不安定で傷つきやすい変化の過程を保護する膜の作用をしている。