犬狼詩集

管啓次郎

  15

川がしだいに急流になっていた、季節が変わるほどだった
私たちが知らないうちにここはもう岩の世界
やまめやさくらますが住んでいる
川を逆のぼることは時間を遡上することだときみはいったが
変だな、きみには、死者には
もう時間など用がないじゃないか
いまではきみは水の女、冷たくほとばしるこの形を欠いた
水流以外にきみが肌の表現をもたなくなるとは
卑劣なスキャンダルだ
個人的な幸福という観念をきみは何よりも嫌った
ぼくはそれ以外に山林や幽谷の
価値をほんとうには知らない
倒木に住む虫たちの生におけるparadigmaticな選択
虫たちの生命とおなじだけはかないのが人の生
さあ、やりなおそう、この強い水に足を濡らして
よろこびこそ生命における最大の批評なのだから

  16

ほんとうに暗い夜は見たことがない
必ず光があるものだ、何かが発光する
星々と獣の目、電線と蛾の鱗翅
落葉の輪郭と泥の上の足跡
獣の尾と人の指先とばらまかれた琥珀の粒
こんな光の群れにみちびかれるままに
夜をひとりあるいはふたりで横切ってゆこう
探すのは夜の勇気
「勇気とはいやなものだ、あまり立派な感情ではない
それはいくらかの怒りと虚栄心と
大いなる強情さと俗悪なスポーツ的快感の混合物」
とサン=テグジュペリが語っていた
でも許してくれアントワン、勇気がいかに愚行に近くても
きみが見たパタゴニアの夜空は私には窺い知れないよ
ただここで地上の小さな雷雲を踏みながら
届かない明け方の勇気への旅を試みるだけ