しもた屋之噺 (106)

杉山洋一

秋空はどうしてこうも変わりやすいのでしょう。つい先ほどまで青空がさしていたかと思うと、突然稲妻が光って、1時間もしないうちに文字通りの集中豪雨でミラノの幹線道路がすっかり冠水して交通が麻痺することが、立て続けに何度かあって、一度は半地下の寝室もすっかり水浸しになったほどです。

ドナトーニの長男ロベルトとコーヒーをはさんで、その昔フランコが蒐集していた数多くの帽子の話になりました。
「あの帽子ね。365個、ちょうど1年の日数の同じだけあったんだ」。
体型や骨格など、フランコにとても似ているロベルトは、いつもどこかはにかんだ微笑を湛えていて、話し方など、アイルランド貴族の娘だったスージーを思わせるところがあります。言葉と言葉の合間に、形容しがたい不思議な甲高い長母音を挟み語調を整えるのが特徴で、そうでなければ、言葉がつまってしまうか、どもってしまいそうな印象をあたえます。アトピーのようなアレルギーなのか、顔の半分ほどがすっかり赤くなっているのが痛々しく見えました。

「365個の帽子は、実はどれもフランコのための同じサイズでね。一つとして被れるものがなかったのさ。365個の帽子があれば、365もの別の人格になりすますことができる。フランコは多重人格に憬れていたから」
「ペッソアの詩を愛読していたものね」。
「自分をさらけだすのが恥ずかしかったんだろう。あの大量の帽子は、フランコが大事に集めたものだから捨てるのも忍びなくて、当初は次男のレナートの納屋にしまっていたのだけれど、彼がミラノからトスカーナに引越すとき、そこも引き払ってしまったものだから、結局暫くうちの地下に段ボール詰めにされてしまっておいた」。

長くフランコが暮らしたランブラーテのアパートに住んでいるロベルトが、こうして目の前の食卓でコーヒーをすすっていると、思わずフランコの姿と重なります。飾り気もなく、いつもきちんと整頓された10年前までの食卓と違って、今は色身も増してすっかり雑然として、彼女の娘と3人で暮らすロベルトの部屋は、アイルランド人のスージーの部屋を思い出させます。

「ある大雨に降られた翌日、地下に降りると、なにやら太いホースが階段の下まで伸びていて、何かと思ったのだけれど。よく聞いてみると、雨に降られて、地下には1メートル以上水が溜まって、ポンプで汲み上げていたというわけなのさ。帽子も黴にまみれてね。結局棄てるしかなかった」。
フランコもスージーも外国語は決して得意ではなかったというのに、ロベルトは中学を出るころには、英語やフランス語はもちろんのこと、アラビア語やイディッシュ語の本を原語で読めるようになっていました。

「当時はね、たとえ母親が外国人でも、バイリンガル教育が悪だと信じられていたから、家でもスージーは下手なイタリア語しか話さなかった。夏にはアイルランドに出掛けたりしていたけれど、特に教えてもらったこともなかったし、結局自分で本で覚えたのさ。とにかく本が好きでね、原語で読んでみたいとおもうようになって、自然に外国語も読めるようになった。話すのは苦手だけれど」。
相槌を打ちながら、無意識にフランコやスージーがいつも本を読んでいた姿を思い出していました。

「アラビア文学やらユダヤ文学やら妙なものに凝っている息子をみて、ベネチア・ビエンナーレに有名な民族音楽学者の友達が来るからとフランコが紹介してくれて。彼からサンスクリットを勉強したらどうかと勧められたのがサンスクリット文学との馴れ初めさ。
サンスクリット語は、コンピュータ言語に似ていてね。インド人が飛びぬけて数学的思考に長けているのと無関係じゃないだろう。スクリプトを覚えるとコンピュータにのめりこむ、あの感覚に近かったんじゃないかな。なにより、サンスクリット文学が面白くてね。
リグ・ヴェーダに全く異本が存在せず、何千年も完全な形で口伝されてきたなんて、想像を絶する事実じゃないか。意味を伝える言語ではなく、規則を伝える人工的な”超(メタ)”言語でこそ可能だった奇跡なんだ」。

生業まで極めたサンスクリット語への情熱を口にして、初めて彼が饒舌なのを知りましたが、ロベルトからサンスクリットの厳格な韻律の話を聞きながら、その昔フランコがバッハの対位法について、同じランブラーテのアパートの部屋で、情熱的に話していたのを思い出しました。

   * * *

東京からミラノに戻ってドナトーニを悼むビエンナーレの新作を仕上げ、11月に初演する尾形亀之助によるマドリガルを書き溜めています。日本語をテキストに使うのは高校生の習作以来で、当初は無理だとほぼ諦めていましたが、先方からの要望もあって書き始めてみると、思いのほか愉しく書き進められています。日本語で曲を書くという先入観に、必要以上に囚われていたのかもしれませんし、その昔、これでは日本の声楽曲の伝統に沿っていないと言われたことが引っ掛っていたのかもしれません。

傷口に塩を刷りこむような作業ですから、自作を譜読みするのは本当に苦痛で、12月に東京で再演する合唱曲も、漸く粗読みを始めたところです。ただ、声楽曲を書きつつ、過去の声楽作品を読返すことで見えてくるものも当然あって、この数年で吹切れたものがあることもわかります。15年ほど巡った挙句初めの場所に戻ってきたような、もしくは当初と似て非なる場所に辿り着いたような感慨を覚えるのです。

再演する合唱曲を読んでいると、当時深い闇の奥に捨置きかけていた何かを、力ずくで取り戻そうともがく、歪んだ純粋と言うのか、全うな不純と呼ぶべきものか、単なる不細工なのか、かかる恥部を受容しないことには先に進めなくて、思わず溜息を漏らさずにはいられませんでした。

めっきり日没も早くなり、今こうして庭から夜空を見上げると、紅葉し始めた樹の向こうに広がる闇も、じんわり深みが増した気がします。今週末からカザーレのオペラのため暫く滞在するレッジョ・エミリアから戻る頃には、或いは濃い乳白色のミラノの朝霧も立ち昇っているかも知れません。

(9月22日 ミラノにて)