掠れ書き(4)

高橋悠治

7皮膚の内側と外側の関係。内側と外側を同時に感じながらうごいていく。入口と出口をもつ一本の管。外側と内側を結ぶ狭い空間。身体を裏返すと世界全体が皮膚の内側に包まれる。内側も外部のように感じ、自分の外側にいるかのように、背中から見る、あるいは上から見下ろしている感覚が、うごくひとの内と外のバランスのとりかたかもしれない。カフカのように世界の側に立つ、世阿弥の言う「離見の見」も、そのように醒めた感覚だろうか。

断食すると身体は敏感になる。だが、内部の貯えを使いながら生きるのには限界があり、一度は鋭くなった感覚は、やがて萎縮し衰弱する。洗練と退廃は紙一重。完全なシステムや方法があると思うのは錯覚で、それらはその時の障害をのりこえるための梯子や舟のように、使い終わったらそこに残して、先にすすむための手段。残すとしたら、隠されたシステムや秘法ではなく、だれの手にもなじむ程度にはみがかれている道具がいい。

高い音は早く消え、低い音はゆっくり消える。それは自然のように思えるが、ほんとうにそうだろうか。1960年に弾いたボ・ニルソンのピアノ曲「クヴァンティテーテン(量)」は、それをテンポに置き換えて、高い音ほど楽譜上の長さより短くするという、歪んだよみかたを演奏者に強いるものだった。シュトックハウゼンの「ツァイトマーセ(時間測定)」の方法を使ったもの。自然と思える感じを誇張すれば、安定感が強調される結果になる。

楽器の音に含まれる倍音をとりだして、もう一つの音として組み合わせれば、色彩的ではあるが、どこか平面化した音の空間になるような気がする。スクリャービンの神秘和音といわれる響き、ロスラヴェッツの合成和音といわれる響き。スペクトル樂派はどうだろう。伝統楽器の一音の多彩な音色(ねいろ)のかわりに、均等化された近代楽器の音を重ねて、音程関係の緊張度のちがいで多様性を創りだそうとする音楽は、和音の厚塗りで重くなる。音を重ねて複雑になればなるほど音楽は身動きできない狭い空間に入っていく。金魚鉢のなかの金魚のようにひらひらと浮き沈みはするけれど。

和声が複雑になり、転調が折り重なって、中心音が定まらない無調になり、そこにあらわれるすべての音を、バランスよく配分しようとする傾向は、12音や音列技法にたどりつく。配分の図式は安定指向と言えるだろう。和音が低音から組み上げられていく、その安定感が、めまぐるしく変わる表面の下で、見え隠れしながら、凧糸のように秩序に繋ぎ止めている。不協和音も対位法も、ドローンやビザンティンのイソクラティマ技法、カトリックのオルガヌムの昔から、神や王に奉仕する音楽のありかたそのままに、上に根をもつ逆さの樹の、地を掃く小枝となっている。

漂う水草や、呼吸根のからみあった複雑で隙間だらけの表面をつくるマングローブは、これとはちがって、中心をもたず、流れのままに散らばっていく。