メキシコ頼り(25)グアテマラ、ホンジュラス

金野広美

メキシコにいる間に少しでも中南米の国々を見ておきたいと、夏休みに入るとすぐ、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズ、エルサルバドルと中米4国を回ることにしました。今月はそのうちのグアテマラ、ホンジュラス編です。

まずグアテマラ空港から直接、アンティグアに行きました。ここは3つの火山に囲まれているため地震が多く、1543年から1773年まで首都として栄えたのですが、あまりの被害続出にグアテマラ・シティーに首都が移されてしまったのです。古い街並みが世界遺産に登録されているのですが、いまだに修復中の建物や地震の廃墟がそのまま観光名所になっていたりするところです。

アンティグアからホンジュラスのコパン遺跡に1泊2日のツアーがでているので、2年前のホンジュラス旅行では行けなかったコパンに行くことにしました。折りしもホンジュラスでは6月28日に軍事クーデターが起こっていたので、当初は行くことを迷ったのですが、いろいろ情報を集めてみると、首都のテグシガルパでは集会やデモなどしているようですが、地方はほとんど何の動きもなく静かだというので行ってみることにしたのです。

アンティグアからはバスで7時間、朝5時に出発しました。国境ではそれぞれの入国管理事務所が隣り合いみんな和気あいあい。すんなり出入国の手続きも終わりコパンの街へ入れました。昼には着けたのでさっそく街から歩いて15分の遺跡へ。

紀元後8世紀ごろ隆盛を極めたコパンにはマヤ文明の代表的な都市遺跡があり、暦の記述と王朝の記録のため作られた石碑や、神聖文字でコパン王朝史が刻まれた72段ある階段ピラミッドなど、とても興味深いものが保存状態もよく残っています。石碑の彫刻は今だに鮮明にコパンの隆盛を物語り、2500以上のマヤ文字が刻まれた30メートルに及ぶ階段は貴重な文字資料として調査が続けられてきました。私はそれを見たとき、その精巧さと大きさにびっくりしてしまいました。それにしても硬い石にここまで細かく彫り続けるマヤ人の根気にはただただ脱帽です。

遺跡を見た後、遊歩道を歩いてコパンの街に帰り小さな街を歩き回りましたが、街には観光客はほとんどいなくてレストランも閑古鳥が鳴いています。ホテルもガラガラ、みやげ物屋のおばさんもひまそうにしています。その中の1軒でいろいろ話しましたが、おばさんはクーデターで客が来なくなったことを嘆き、クーデターを起こした軍部を非難します。

コパンは遺跡に来る観光客で成り立っている街なので当然の意見だとは思いますが、それにしてもクーデターなんかいったいどこで起こっているの、というくらい平静で、確かに「こんなに静かなのになぜ観光客よ、来てくれないのー」と叫びたくなる気持ちはよくわかります。街の中心にあるマヤ考古学博物館のフィト・ララさんは「私たちが望むのはただ民主主義と平和です」と悲痛な表情でホンジュラスの政情を嘆いておられました。ただでさえ中南米の最貧国のひとつだといわれているホンジュラスです。早く平和的な解決がなされないと一般国民はどんどん窮地に追い込まれていくという気がしてしまいました。

そんなホンジュラスから、いったんアンティグアに戻り、今度はここからバスで2時間半のアティトラン湖のほとりにあるパナハッチェルに行きました。ここは湖の周りに多くのインディヘナの村があり、湖を船で航行できます。パナハッチェルに降りたったとたん、たくさんの人が自分の船に乗れと押し寄せてきました。そのうちの一人が私の行こうとするホテルは高くなっているので別の安い宿につれていってあげるといい、船も安くするというのでついていきましたが、宿は安いだけはあるというしろものでした。また船賃も船着場の人と結託して安いと思わせているのではと疑われたので、彼の船に乗るのはやめました。おまけにバスで行けるはずの近くの村も道が悪くてバスでは行けないから自分の船で行けというのです。これもどうも嘘っぽいのでやめました。

別の船でサンティアゴ・アティトラン、バスでサンタ・カタリーナ・パロポのふたつの村に出かけました。サンタ・カタリーナ・パロポで湖のほとりを歩いていると女の子が湖で大量の洗濯をしていました。彼女の名前はアナといい10歳、毎朝歩いて1時間の山の中からここまで家族中の洗濯物をしにくるのだそうです。そして、洗濯が終わると山に帰り0時半から始まる学校のためにまた下りてくるのだそうです。毎日4時間、山を登ったり、降りたりしていることになります。いろいろ話していると弟のニコラスがやってきました。3人でお菓子を食べたり、写真のとりあいっこをしながら楽しく過ごしました。ニコラスは初めてカメラを触るらしく、私とアナの写真がうまくとれなくて、いつも片方が切れてしまいます。でもそのうちにちゃんと2人が真ん中に入りとてもうれしそうでした。アナが私に「朝ごはんを食べたらまた0時半にここに来るので待っていて欲しい」といいました。でも私は「次のバスの関係で11時30分には行かなくてはならない」というととても残念そうでした。私もとても残念でしたが、頭に大きな洗濯物のたらいをのせ山に帰っていくアナをいつまでも見送りました。

バスの時間までまた湖のほとりを歩いていると、今度はアナより少し小さな女の子が美しい刺繍のテーブルセンターを売りに寄ってきました。いくらかと聞くと100ケツァール(約1300円)といいます。私は高いからいらないというと、いくらだと買うかと聞いてくるので、あまり買う気はなかったのですが、つい「60」と答えてしまいました。するとその子は80に下げ「10は私へのチップにくれ」というのです。私が断ると今度は70に下げ、「私にアイスクリームを買って」となかなかしつこいのです。私はあまりのしつこさに全く買う気がおこらなくなり、彼女が私の言い値の60に下げたにもかかわらず買いませんでした。丁々発止のその間約30分、でも別れてから少し後悔していました。あんなに一生懸命で、おまけに私の言い値の60まで下げたにもかかわらず追い払ってしまったからです。少し反省しながら通りを歩いているとさっきの女の子が、きっと仕事が終わったのでしょうか、私の前を横切りました。そのとき私の顔を見てにこっと笑ったのです。その顔はあの手練手管を使った売り子ではなく一人の女の子に戻っていました。私はなんだか救われたような気持ちになり、思わず彼女に手を振っていました。

かわいらしくもせつない気持ちにさせられた女の子たちの住む村をあとに、夜行バスに乗りグアテマラの北にあるティカル遺跡に行きました。明け方バスが道の途中で止まり、一人の男性が「ティカル、ティカル」と叫びながらバスに入ってきました。私はびっくりして起きました。ティカルに行くにはバスを乗り換えろというのです。なんだか変だなあと思いながらも、いわれるままにマイクロバスに乗り換えると1軒のホテルの前に止まり、ここに宿をとれというのです。部屋を見ると値段のわりにはいい部屋だったので、そのまま泊まることにしました。そしてもうすぐティカルへのツアーが出発するのでホテルまで迎えにくるといい、おまけにベリーズ・シティーまでのツアーもあると矢継ぎ早に売り込んできます。寝起きだったせいもありますが、そのまま申し込んでしまいました。しかし、あとでよく考えると、なぜあんな中途半端な場所で突然マイクロバスに乗り換えなければならなかったかわからず、よく聞いてみるとグアテマラ・シティーから乗った夜行バス会社が経営する旅行会社が、ティカル遺跡への基点となる目的地のフローレスに着く前に客を先取りしたのだとわかりました。寝込みを襲い、何がなんだかわからないうちに契約させてしまうとは、やりかたが荒っぽくてなんともいやな気持ちになりました。

それにつけてもグアテマラの観光業界は競争が激しいのか、観光客をだましてでも客を獲得しようとする業者が多いため油断がならず、何度も腹立たしい経験をしました。長い間いろいろな国を旅しましたが、こんなに疲れる国は初めてでした。

それでも気を取り直してその日の朝6時、迎えのバスに乗りティカル遺跡に行きました。ここはグアテマラ北部ペテン市のジャングルに埋もれるマヤ最大の神殿都市遺跡として知られています。紀元後300年から800年ごろ最も栄えたということで、16平方キロメートルの空間に3000にも及ぶ大小の建造物があります。あまりの広さと暑さと睡眠不足で、少しふらふらになりながらも、ひとつづつ大きなピラミッドを見て回りました。その中で特に4号ピラミッドは高さが70メートルあり、ここに登ると眼下は一面の緑の海、1号ピラミッドが顔をのぞかせています。風が吹くたびに木々が大きく揺らぎ、まるで海の底から温泉が湧きあがってきているようで、このジャングルは、今なおマヤの人々の命が息づいているのではないかと思ってしまうほど生命力に満ちあふれていました。