雨が続きます。1月30日18時ころの東京の気圧は1016.8hPa、気温は11.5℃、湿度が62%で、この日いちにちの日照時間は0、降水量は26.0mmでした。日中は「あっそうだ!」とかなんとかひとりごち、乾ききった室内から用もないのに小雨降る中に飛び出してさぼるによい気候、しかし夏は寒くて冬は暑いってどういうことか――古いビルの空調には困ったものですが、文句言ったり息抜きするのもまんざらではないのです。以前、水なし印刷工場を見学したら、工場内はすべて温度湿度が管理され、匂いも音も埃もなく明るくきれいで驚きました。有害な廃液が出ないので環境にいい印刷方法だとことさらにフューチャーされていたころで、職場環境にも配慮したクリーンな会社ですと誇り高く説明を受けいいなあと思いましたが、あまりの快適さに息苦しさも覚えました。
九鬼周造さんの「製本屋」という詩(『文藝論』1941 岩波書店)には、パリの製本屋が描かれています。曇りの日は糊の乾きが悪いので、親方が弟子に注意をうながす場面ではじまります。
「頁を調べたか、表紙をうまく貼れ
糊の乾きが悪いな、今日は曇天」
小僧を振り向く親仁の着た半纏
ダルトア街、製本屋の主人は彼れ
背革の金字がぼんやり浮く黄昏
出来上つたのはモリエール、ラフォンテン
コントの政治体系、リトレの辞典
終日はたらいて外へ出るのも稀れ
百貨店へ通つてる十九の娘
「お父さん」と呼ぶと仕事の手を休め
につこり笑ひながら食卓に坐る
気さくなおかみを亡くしたのはこの夏
永久に帰る筈のないものを待つ
巴里の夜、聖心寺の鐘が鳴る
一行を十八音節で揃えて脚韻をふんだこの一篇を、鈴木漠さんは九鬼自身による押韻詩の作例として「ほほえましいソネット」とどこかで紹介していましたが、abba、abba、ccd、eedを眺むるよりまず、紙や革、金箔、糊、刷毛などの製本道具に囲まれた作業場や大切に用意された食卓や寝室のようすが、グレーのなかから金、赤、白などの色といっしょに一日のそしてもっともっと長い時間をまとって浮かび上がってきます。豊かでも華やかでもないけれど、人が丁寧に暮らすことの好ましさを深く感じるのです。
製本屋とは、どんな道具で作業をしているのでしょう。スペインの製本家、ジュゼップ・カンブラスさんが2003年にまとめた『西洋製本図鑑』の日本語版(雄松堂出版 2008.12 6,600円)で、それをかいま見ることができます。スペイン、フランス、英、ドイツ、イタリア語版がすでに出ており、製本や本の修復にも詳しい市川恵里さんが翻訳、製本家・書籍修復家の岡本幸治さんが監修しています。大判(305×235mm 160ページ)でオールカラー、西洋の製本の歴史と道具や材料、作業工程などが多くの写真と的確な解説・吟味された翻訳で紹介されています。ビジュアルで見せるかノウハウの説明かに偏らず、また、過去のものとしてあるいは芸術作品にも偏らず。写真にうつる使い古された道具とジュゼップさんの序文を読んで、それで九鬼周造の「製本屋」を思い出したことでした。
……製本とは、手書きもしくは印刷された文書を綴じて、日々の使用に耐えるように表紙をつけて保護することである。……
……製本を教えて20年、プロの製本家として35年間活動する中で、愛書家や生徒たちからよせられた数々の意見や質問、悩みから本書は生まれた。……(「序文」抜粋)