そう来たか。コルカタのオールドマーケットの近くの路地の角でみつけたスナック売りが売っていたのは、なんともふしぎな豆のおやつであった。おいしそう……と立ち止まると売り子の兄さんが、食べてみろと手のひらにひとつまみ落としてくれる。
豆は茹でたブラック・チャナ、黒ひよこ豆である。そして、なんとその豆からは白い芽が5ミリ〜10ミリくらい伸びているではないか。よく見るとえんどう豆も少し入っている。もやしかあ、と口に入れ噛みしめる。「いける……」と思わず口走って豆売りの兄さんの顔を見ると、にやりと笑顔。「5ルピー分ね」とすぐに頼む。
豆をすくって容器に入れ、刻んだ赤たまねぎの親戚のシャロット、青唐辛子の刻んだのを少量混ぜ、何か分からないがおいしいスパイスと塩、そしてライムの汁とをしぼってシャッフル。紙をくるりと円錐形に巻いたものにざーっと移して、はい、と渡してくれる。
もやし、と言うとつい日本ではのびた白い芽を考えてしまうが、茎を食べるあれはもやしの食べ方のほんのひとつにすぎない。もやしとは、種子(豆)が発芽した状態であって、その発芽のために種子の成分が大きく変化して、人間に食べやすくなり、栄養分も飛躍的に増える状態になったもののことだ。発芽準備に入って成分が変化していれば芽が出ていようが出ていまいが、もうそれはもやしである。
最近注目されている発芽玄米も、もやしなのである。豆はどれもけっこう消化が悪いが、発芽させれば、ぐっと消化がよくなるうえに蒸したり茹でたりする時間も短くてすむ。食べにくい豆をおいしく食べやすくする食の知恵なのだが、日本の豆の食べ方には発芽させてから食べるものが少ない。ちょっと不思議なぐらいだ。むかしはあったがすたれたのだろうか。
ひよこ豆スナックは、実にうまかった。豆になんともいえないうまみがあるのである。もやし効果。味付けの塩もかすかな硫黄臭があり、どうやら岩塩のようだ。ビールのおつまみに最適。でも町にリカーショップはあまりない上にしょっちゅう閉まっている。コルカタでは酒飲みは苦労する。もっともお隣のバングラデシュのように町にアルコールの影も形もなく、犯罪者のようにこそこそホテルのボーイに耳打ちされて、やっと手に入れられるほど厳しいわけではない。
しかし、次の日もまたその次の日も同じ路地の角に行ってみたが、その豆売りはいなかった。後日コルカタにやってきた友人たちに「ひよこ豆のもやしスナックがおいしいねん!」と力説したのに、影も形もない。見つけられないまま、北に移動してダージリンの町でまたひよこ豆スナックを見つけた。
そう来たか。またもや豆売りのおにいさんの前でわたしはうっとりと立ち止まった。今度は、ひよこ豆もやしでなく、うち豆である。うち豆というのは、茹でたり蒸したりした豆を叩きつぶして平たくして干したものである。日本では大豆や青大豆でやる。丸くつぶされたひよこ豆がうつくしく積み上げられている。やはり、同じように刻んだシャロット、トウガラシ、スパイス岩塩、ライムで味つけ。これはうち豆を油で揚げてあるようで、かりかりとしていて香ばしく、先のもやしスナックとはまたちがうおいしさ。
ダージリンはインドの一部とはいえ、もともとチベット・ビルマ系やタイ系の先住民族が住んでいる地域であった。チベット人の移住も多い。インドをイギリスが植民地にして以来、ネパールからゴルカ族が労働者として移住してきて、現在の住民のマジョリティはゴルカである。町にはさまざまな民族の姿があり、ベンガル人ばかりのコルカタなどと違って、町を歩いていても回りから激しく浮いたり、じろじろと見つめられたりすることが少ない。おいしいチベット餃子のモモもあるし、ものすごく気楽だ。
市場に行くと、はずれの道端でおばちゃんが納豆を売っていた。見た目は日本のひき割り納豆そっくりである。「これは買ってみなくちゃ」「ええ?どうすんの?」旅の相棒は、こういう旅先の発酵ものに不信感を抱いているので、顔を背けている。日本では毎日食べるほどの納豆好きなのに。宿で食べてみると、ねばりはないが日本の納豆そのままの味。けっこうおいしい。醤油がほしいぞ。「おいしいよ。食べてみない?」「い、いやけっこうで〜す」発酵してるだけで、腐ってないってば……。
タイの北部やラオスにも納豆があるが、つぶして平たくしてせんべい状にして乾燥しているものがほとんどで、たまに大徳寺納豆のようなやわらかいものがある程度。家庭料理にダシとして使うことが多いので、いままで買って食べたことはなかったが、もしかしてそれはとってももったいないことだったかもしれない。
旅先に醤油を持って行くというのは、ほとんどしたことがない。こう、何か旅人としては軟弱なような気がしていたからである。もっともタイにはナムプラーというすばらしい魚醤油があるので、不自由を感じたことはないからでもある。でも納豆にはやっぱり大豆醤油でしょ。
日本に帰って発酵学者の小泉武夫さんの本「納豆の快楽」(講談社)を見つけ、読んでいると、小泉先生は世界を飛び回っておられるが、旅には必ず納豆を持参するという。一ヶ月ぐらいの旅には生で、それ以上のときは乾燥納豆をもっていくそうだ。ちょっと腹具合がおかしいときや、あ、これまずいかも、と食べてから思った場合でもその納豆を食べるとほとんどけろりと治ってしまうという。食中毒の予防に大変よいばかりか、日々の体調を整えてくれる健康食品なのである。旅先で納豆を見つけたら、どんどん食べなくっちゃ。
カルコタに戻って、町を歩いていると道端に豆のスナック売りを見つけた。以前のお兄さんとはちがう店だが、同じだろうと買ってみると、何か違う。
「あれ、おいしくない、固い……生みたい」「あ、もういいわ」豆好きの友人も一口食べてうっという顔。その店のひよこ豆は、もやしにしてあるが、茹でてなくて生なのであった。ガリガリとして青臭くぜんぜんおいしくないし、消化できそうにもない。なぜ、茹でていないの! すぐ近くにもう一人同じ豆売りがいたが、その豆も生のようであった。ひよこ豆は細い白い茎をくるくると伸ばし、畑にまいたらぐんぐん成長しそうである。
北に行く前に食べた、茹でてあるひよこ豆もやしのスナックはとてもとてもおいしかったのに、どういうことなのだろう。インド人は茹でてないガリガリ生タイプもお好きなのであろうか? いやいくらなんでもおなか壊すと思うんだけど……。
豆好きで、豆に関してはエキスパートのはずのインド人である。何か理由があるのだろうか。ひよこ豆スナックの三つ目の食べ方に、謎はふかまるばかりである。