あるレーベルのCDジャケットを作るのに、きまってお願いする目白の紙工所がある。工場の近くには桜並木があるから、この週末はみなさんでそぞろ歩いて、ちょいと一杯やったのかなあ。本の函作りを発端として、その技術をさまざまな紙製品に活かしているが、最近は本に代わって、DVDや化粧品などのパッケージが増えているようだ。奇抜だったり豪華だったり。そういうパッケージの仕事も面白そうですねと言うと、「いやうちは本の函を作っていきたいんですよ」と社長が言う。かっこいいなと思いつつ、私も本ではないもののパッケージをお願いしているわけです。
本の函は大きく分けて、手で貼るものと機械で作るものがある。普段目に触れる本の函のほとんどは機械貼りだが、どれだけ機械で量産するにしても、最初に見本となるものを作るのは手だ。函の土台となるボール紙などの台紙をまずロの字型に組み立てて、底の部分をあててその上から全体に紙を貼るのが手貼り函の基本。パーツの組み合わせ方と素材の厚みを考慮して製図すること、また、入れる本の大きさに対してどれだけ遊びをもたせるか、ボール紙の強度、紙の伸びなどをどう計算するか。函の形はそれなりにすぐできるので簡単に見えるが、良い函はめったなことで作れない。以前通っていた製本教室では、函を横にして天地を両手で持って軽く一、二、三振りしてすーっと出るのが良い函、と習ったが、そんなの無理無理。
手貼り函の工程は、最近増えたカルトナージュ関係の本やウェブサイトで似た方法を見ることができる。いろいろ見ると、台紙のパーツを組み立てるときにその接触面を補強するために貼る「水張りテープ」というのが、カルトナージュ界では必需品のようだ。ロールで売っていたので、買ってみた。目白の工場で手貼り函の工程を見学したときに、やはり同じ場面で細長く切ったハトロン紙を貼っていた。それを「ジャパン」と呼んでいたのがおもしろくて、社長にその名のいわれを聞いたのだった。「上貼りの下に貼るから『じゅばん』、それがなまったと聞いたことがあるけれど、どうかなあ……」。
ほかにもいくつも、独特の呼び名があった。「亀の子」「チョウチョに切る」「トンネルにする」。順番に、亀甲型に切ったハトロン紙(使い方はジャパンに同じ。使う場所が違う)/ハサミでハの字に切り込みを入れる/台紙のパーツをロの字型に組み立てること。このあたりは今思い出しても納得がいくが、「ジャパン」はやっぱり、ふにおちない。機械貼りの工程でも、おもしろい呼び名を聞いた。「ビク抜き」「トムソン」。いずれも、函の台紙を、展開図通りに断裁すると同時に折り筋などもつける、打ち抜き工程のことである。
「ビク抜き」は、英国のビクトリア社の平打ち抜き機械が由来のようだ。「トムソン」は関西地方でよく使われているらしいということだけで、名の由来はわからなかった。いずれにしても、この工程は何ですか?との問いに、ビク抜き(ならまだしも)とかトムソンといきなり応えられると、ちょっとおもしろい。折り抜き加工を特集した『デザインのひきだし4』にも、この工程の呼び名はやはり「トムソン」「ビク抜き」さらに「オートン」と紹介され、「トムソン刃」と呼ばれる刃型を使うから「トムソン」、また「オートン」も機械由来の通称だとある。きっと「トムソン」も、刃のメーカー名かなにかなんだろう。業界人にしかわからない、先端の、誇らしい呼び名であったことだと思うのだ。
『デザインのひきだし4』は、工程や実例を写真付きで詳しく説明している。その中にも出てくるが、ベニヤ板に、小さなオレンジ色のゴムと刃が端整に並ぶ打ち抜きの型は、ほんとうに美しい。事情を言うと、断裁や折り筋、ミシン目など、製図されたラインに添って様々な高さ長さ形の刃(トムソン刃)が並んでおり、その板に函の台紙を一枚ずつ押し付ける(平打ち抜き機械でプレスする)ことで、切り抜いたり跡をつけることができる。ゴムは、押し付けた刃を紙からスムーズに抜くためにあり、波形をしたオレンジの点在ぶりがまたいい。打ち抜きの「型」はそのための唯一のもので、残しておけば増刷のときにすぐに使えるわけだが、いつそのときがくるかわからないのに保管するというのは現実的ではない。でも目白の工場にはそれがたくさんあって、それこそ年代物もあり、誇らしげで静かで宝物のようだった。
直線を中心としたシンプルな抜きは「ビク抜き」で行い、もっと細かな形を抜くときには別の方法がある。刃の種類が違うので、単純なものと複雑なものを混在させてプレスするときは別工程にすることがあるようだ。実は最初に言った「あるレーベルのCDジャケット」は、断裁と折り筋をつけるほかにレーベルのロゴを空押ししている。一度のビク抜きでロゴの空押しもできていると思い込んでいたのだけれど、ちょっとしたハプニングでそうではないことがこのたびわかった。なにごともなく進むに越したことはないけれど、起きてしまえば、起きたのだから、なにごともなければ会うはずのないなにかに会っているのだろう。