1月27日にスハルト元大統領が亡くなった。私の1回目の留学は1996年から1998年5月8日までで、帰国して約2週間後の5月21日にスハルトは辞任した。スハルト本人に芸術的素養があったとは思えないが、芸術を国家イベントでめいいっぱい利用することには長けていた。今回は留学早々に見たスハルト絶頂期の産物である舞踊劇と、堕ちる寸前に見たスハルトのあがきとでも言えるワヤンについて書いてみたい。
●ハルキットナスの舞踊劇
ハルキットナスはHarkitnas、つまりHari Kebangkitan Nasional(民族覚醒の日)の略称で、5月20日がその日にあたる。祝日にはなっていないが重要な国家記念日の1つで、毎年式典が行われる。1996年には私の留学先の国立芸大が、この式典に続いて上演される舞踊劇の制作を指名された。毎年全国の芸大などが交代で指名されていたというが、1996年のこの時が舞踊劇が創られた最後の年だったと聞いている。翌1997年にはスハルト政権下で6回目となる総選挙があり、4月末から選挙戦が始まっていた。その年はスカルノ元大統領の娘メガワティが対抗馬として登場したこともあって選挙期間中の5月はかなり不穏な雰囲気になっていたし、1998年は暴動の真っ最中で、どちらもハルキットナスの式典どころではなかったと記憶する。そしてそれ以降の大統領は、もはやこの”伝統”を引き継がなかったようである。
話は1996年に戻る。ハルキットナスの式典はジャカルタのコンベンション・センターで実施され、テレビで全国に生中継された。巨大な舞台の両脇にはスクリーンが据えられている。私のいた芸大では、教員や学生のたぶん過半数が踊り手、演奏家から化粧・着付、舞台スタッフとして動員され、その練習があるために1ヶ月くらいまともな授業はなかった。
その舞踊劇の内容は、簡単に言えば、インドネシアの歴史をざっと振り返り、現在の繁栄の頂点を描くというものである。この当時はまだ留学したてで何も分からなかったけれど、今から考えてみると、この舞踊劇にはインドネシアの典型的な自国認識が反映されていた。
まず最初の時代は暗黒未開の時代で、アルカイックな感じの鬼(の面をつけた踊り手)が暴れまわっているシーン。東南アジアの歴史については、古代―ボロブドゥール寺院などが建てられた頃―から近代にすっ飛んで中世がないということがよく言われる。が、古代についても具体的な生活風俗がよく分かっているわけではない。だから舞踊劇化しようと思えば、そんな風に描くしかないのだろう。
次にくるのが近代=オランダ植民地時代。ちなみに日本で言えばその頃はちょうど徳川時代にあたる。この舞踊劇に限らないが、インドネシアの舞踊の中で描かれるオランダの姿は決まって軍隊である。考えたらこれは当然のことで、来るべき民族独立運動の歴史を描くには、その抵抗相手は軍事征服者でないといけない。で、その後、オランダに抵抗するディポネゴロやら女性解放運動の先駆者カルティニ女史やらが登場し、インドネシアの独立に至る。
そして現在。蓮の花のつぼみの作り物が舞台に出される。この蓮が花開くと、中からガトコチョが飛び出ると同時に、舞台にも何人ものガトコチョが登場する。一方で、舞台脇のスクリーンには離着陸する飛行機の映像が映されている。つまり、空を飛べる能力を持った英雄ガトコチョ(ワヤン=影絵芝居によく登場する)は飛行機の象徴であり、ひいてはスハルトの「開発」政治の成功の象徴というわけなのだ。インドネシアは、この前年にアセアンの国々で初めて国産の飛行機の開発に成功しているから、この舞踊劇を見た人は誰だってそのことを思い出したはずである。この現在のシーンでは、大量の紅白の傘が舞台で花咲き、巨大なインドネシア国旗が何本も振られる。そして、舞台全編を通してインドネシア語のナレーションが入り、この壮大なる歴史物語をいやが上にも盛り上げる。この舞踊劇はまさにスハルト絶頂期の産物であった。
留学したての私には、この舞踊劇は全く驚きの代物だった。それまでの私にとって、ジャワ舞踊というのは即ちジャワ宮廷の舞踊のことで、どこまでも優美で、心の内面を重視し、象徴的なテーマを扱うものであって、こんな風に応用可能だとは思ってもみなかった。それに、戦中はともかく、現在の日本ではこういう「国家事業芸術」を見ることもない。だが長期滞在していると、インドネシアではこういう風に記念イベント行事を作ることが多いと分かってくる。
このように、踊り手と音楽家を数百人動員して、巨大な舞台でスペクタクルなドラマを上演するのは、1961年に国の観光事業として始まるラーマーヤナ・バレエが最初である。確かにそれ以前のジャワでも、イベントを記念するために舞踊を作るということはあった。しかし、そもそも巨大なステージやそれに見合う音響設備はそれまでは存在しなかったのである。この舞踊劇が始まったのはスカルノ時代のことだが、スハルトは就任早々の1970年に全国ラーマーヤナ・フェスティバル、ついで翌年には世界ラーマーヤナ・フェスティバル(参加したのは東南アジア各国とインド)を開催し、このラーマーヤナ・バレエを、インドネシアのアイデンティティとして政治的に活用した。スハルトはこの種のマス芸術を活用するのに長けていたのだ。
●経済危機のルワタン
1997年の終わりからルピアはどんどん暴落し、油や砂糖など生活物資はどんどん急騰し、1998年に入るともう人々は公然とスハルト批判をするようになった。そういう時期にスハルトは全国各地で(確か50ヶ所くらいと聞いた)国家的ルワタンとも言えるワヤン(影絵芝居)の上演を命じ、「ロモ・タンバック」を上演させた。ルワタンとは魔除けのことである、通常のルワタンでは個人を対象とし演目も決まっているが、この時は国家のお祓いで、またスハルトが重視していたラーマヤナから、ロモ=ラーマがアルンコ国に渡るためにサルの援軍の助けを借りて川を堰とめるという演目が使われた。
スハルトはクジャウィン(ジャワ神秘主義)に凝っていた。そのクジャウィンの流儀の一つとして、その人の性格をワヤンの人物になぞらえるというのがあるらしく、スハルトはそのクジャウィンの師からラーマにあたると診断されたらしい。ちなみにスカルノはクンボカルノだとされていた。クンボカルノはラーマの敵ラウォノの弟ながら忠義の人物(怪物)なのだが、敵ゆえにラーマの手により倒れる。そうやって、スハルトはスカルノの後を襲った自分を正当化していたのだという。
というわけで1998年のルワタンに話を戻す。「ロモ・タンバック」はソロでは2月20日にグドゥン・ワニタ(婦人会館)で、女性の女性問題担当国務大臣を迎えて上演された。有名どころの歌手をズラーッと並べ、客人にも有名なダランたちが多かった。ワヤンの導入部では、慣例の曲を使わず、スカテン(ジャワ・イスラムの行事に、王宮モスクで演奏される音楽)をアレンジした曲を演奏していたのを覚えている。この演奏は芸大によるもので、この通常の倍くらい大きいスカテン楽器はガンガン演奏され、厳粛というよりは壮大なルワタンという雰囲気を盛り上げていた。
しかし、この時期、物価は何倍にも跳ね上がっていたのだ。起用された芸術家らにとってはラッキーな仕事だったと思うが、こんなことに散財せずに、もっと庶民に金を寄こせ!と怒る人々もいただろうと思う。そういう私も、ルピアで預金していたのが通貨危機で一気に目減りして、帰国のチケット代(ドル建て)が足りなくなってしまい、あわててドル送金してもらっていたのだった。
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このルワタンから3ヵ月後の5月に退陣し、7月に脳梗塞で倒れたスハルトは、意外にもしぶとく生き続けたなあと思う。スハルトは1996年の4月26日に(あの絶頂のハルキットナス式典の1ヶ月前に)夫人を亡くしている。だいたい妻を亡くした夫というものは早死にするというのが相場なのに、その上に大統領退陣と病気のダブルパンチに見舞われながらも、この10年近く屈しなかった。それはなぜだったのだろうと、死んだ今になっても不思議に思う。