タイの北部の古都チェンマイで最近お気に入りのめん屋さんがある。ナイトバザールの通りから一本東のピン川よりの道、チャルーンプラテート通りに昔からある店だ。ポンピンホテルの手前、ダイヤモンドホテルの向かい辺りにある。表のガラスケースに魚のつみれがたくさん飾ってある。魚のつみれがそんなに好きではないので、積極的に店に入る気が起こらなかった。たしか、十数年前は一時期けっこうここで食べていたような気もするのだが、わりとおいしかったとは思うが、もうさだかではなかった。
先日、その店の近所で昼食となり、まあいいか、と店に入ってふつうの米めん・クイティオを注文した。出てきたのは、透明なスープに米のめん、上には魚のつみれダンゴ、魚のすり身をひも状にのばしたもの、皮もすり身のギョウザ、かまぼこなどがたくさん乗っている。すべて魚のすり身で作ったものである。何の期待もせずに口に運ぶと、つみれダンゴも、かまぼこも、すべて具がたいへんおいしいではないか。皮もすり身のギョウザはぷちりと噛むと、とろりとした餡が口の中に流れ出る。
「今まで食べた魚つみれダンゴたちの中で一番おいしいかも」
「うん、いける」
魚のつみれが好きなウチの同居人もうれしそうに食べている。スープとめんはあっさりで、ほどほど。あまり魚のつみれダンゴ系のものが好きでないというのは、おいしいものがなかなか見つからないということも関係しているかもしれない。
「おいしい店なのに、なんで来なくなったんやろ?」
「高いからかなあ? けど、まあちょっと高いだけやし」
ふつうのめん屋さんよりはたしかに10バーツほど高いが、この味ならまあいいだろう。食べているうちに、以前「タンマダー(ふつう)」とわざわざ注文しないと外国人には自動的に「ピセー(スペシャル)」のクイティオが出てきて、ちょっといやな思いをしたのだということを思い出した。注文でとくに何も言わなければ「ふつう」でしょうが。
店の一角で白人旅行者のカップルがめんを食べているのが見えるが、明らかに器の形が違う。料理屋では区別のため値段で器を変える。あれはピセーに違いない。そういえば、めんを注文するとき、ふと気になって、ふつうはとくに言わない「タンマダーね」という確認をわざわざしたのも、かすかな以前の記憶があったためかも。タイのめん類の「ピセー」は、ふつうより具が多くなって、値段が5バーツから10バーツ高くなる。もともとタンマダーでもぎっしりと具がのっているので、つみれがあんまりたくさん食べられないわたしには、むしろ迷惑なスペシャルであって、しかも注文もしていないのに勝手に出してくるその根性がまたイヤなのである。たぶんそれで、若かったわたしは来なくなったのだろう。タイのめん類は、めんの量がとても少ないので、めんの量を増やしてくれるのならまだいいのだが、残念ながらそういうピセーは存在しない。
短い旅行者には、どうでもいいようなレベルのことなのだが、タイ生活が長くなり「暮らしている」感覚になってくると、こういうのはうっとうしい。タイで外国人には値段の高いピセーを持ってくる店はけっこう多い。でも、屋台の汁めんでも外国人には3倍、4倍の値段を言って絶対引かないのが当たり前のベトナムなどに比べたら、ちょっと高いものを食べさせようとするなんて気持ちはカワイイものである……とベトナムに行ってから思うようになったけど。
丸い魚のつみれは、タイではルークチン・プラーと呼び、焼いたり、揚げたりして食べることもあるが、もっぱら米めんクイティオの具として活躍する。魚のつみれダンゴやかまぼこをたくさん具として上に乗せる、というのはタイ以外の国ではあまり目にしないめん料理だ。日本でも和風ラーメンにはかまぼこやなるとをのせるが、せいぜい一枚か二枚。チャーシューを敷き詰めたラーメンはあってもなるとを敷き詰めたラーメンはない……。というのも、タイのこの魚つみれ入り汁めんのルーツはめん料理ではなく、ルークチンなどのつみれやかまぼこ類を野菜と煮た、広東料理のイェンターフーというスープ煮料理にあるからである。それにめんを添えたものが、タイのクイティオの始まりである。なので、クイティオにとって、重要なのはめんよりもルークチンなどの具。なので、一杯のめんの量は大変少ない。
クイティオをタイに持ち込んだのは18世紀から19世紀のバンコク王朝時代にバンコクに移住してきた華南の広東、潮洲出身の華僑たちである。潮洲というのは、広東省と福建省の境にある地域で、広東省に属するが、広東語とはかなり違う潮洲語を話す。バンコク王朝の王が潮洲出身の中国人の血をひいていたので、潮洲出身者がバンコクで優遇され移住が奨励された。そのため、今でもタイの華僑の7割が潮洲出身者である。クイティオというのは潮洲語で米の粉から作っためんのことで、めん料理をさす言葉ではないが、現在では米のめんを使った料理の総称としても使われる。以前は広東語のイェンターフーがめん料理をさす言葉として使われていたが、その呼び名はすたれ、今では赤い腐乳入りのクイティオだけをそう呼ぶようになっている。
タイでは、このルークチン入り汁めんのあっさりクイティオが現在ではめんの主流となりつつある。しかし、もっと古い時代に中国雲南省から伝わったと思われる、汁めんのカオソーイの系統も地方に行くとまだまだ健在である。カオソーイと呼ばれるめんの系統はトリガラスープに鶏肉入りや、牛肉ダシの牛肉入り、豚骨ダシに肉味噌のせなどである。これらはクイティオに比べると、けっこうコテコテで濃厚な味が多い。米のめんもきしめんぐらいの幅が多い。チェンマイのカレーめんの「カオソーイ」は北部地方のめん類の呼び方がカレーめんだけに残ったものである。同じタイ族のラオスやビルマのシャン州では、魚つみれ入り米めんのクイティイオはほとんどない。カオソーイ系列の米めん料理が中心である。小麦粉の中華めんも、これらの地域ではあまり見かけない。中国人の店でしか商われておらず、純正中国料理、というたたずまいだ。魚つみれ入りめん料理というのは、ルーツは中国ではあるもの、タイ王国でふしぎな形でおいしく発展した料理といえるだろう。味つけに醤油ばかりでなく魚醤油のナムプラーを使うことも忘れてはならない特徴のひとつだ。
さっぱりしたクイティオはお昼ごはんや、ちょっとお腹がすいたときに手軽に食べられ、毎日食べても飽きない。タイのめん類は、基本的に薄味に作ってあり、テーブルに置いてある調味料で最後の味の調整は自分でする。食べ飽きないのは、これで自分好みの塩分や酸味、辛味を作れるからでもある。組み合わせでいろいろなバリエーションのめん料理を食べることが出来、まさにタイはめん食いのパラダイス。あとは化学調味料の使用をもっと少なくしてくれれば文句はない。
アジアの料理人が、化学調味料を汁めんの仕上げにばさりと大量に入れる習慣のおかげで、わたしはタイ・ラオス・雲南省・ビルマ・カンボジアなどのアジア各国の言葉で「味の素を入れないで」と言えるのだが、あまり自慢になるような、ならないような……。ちなみにタイ語では「マイ・サイ・ポンチューロット」、ラオ語では「ボー・サイ・ペンヌア」である。