己が姿を確かめること その1 鏡を使うこと

冨岡三智

伝統舞踊の稽古で鏡を使うのは良くない、とはよく言われることである。ジャワ舞踊でも鏡を使う習慣はない。そのことに私は基本的には賛成しているが、では私は鏡を使わないのかと言えば、使う。鏡も使いようだと思うのだ。

まだ留学してきたばかりの頃の私は、いくら鏡に自分を映して見ても、自分の動きのどこが悪いのか、師匠との動きの差がどこにあるのか、実はさっぱり分からなかった。

私がメインとする女性舞踊の場合は、師匠の振りを見て倣うという、昔風のやり方で稽古をしていた。それがある程度進んでから、今度は芸大の先生についてアルス(男性舞踊優形)の稽古も始めた。この先生は、当時決まって、鏡がずらりと並ぶ舞踊科の化粧室で稽古をつけてくれた。それは鏡があるからという理由でなく、別の理由からなのだが、この先生にある時、「いま、鏡を見てごらん」といわれたのである。

鏡には先生と私が並んで映っている。その時に初めて、先生のとっているポーズと私のポーズとの出来具合の差が自覚された。自分1人の姿をいくら鏡で見ても客観的に眺めることができなかったけれど、比較対象者と一緒に鏡に映りこむと、彼此の差がある程度客観的に分かるのだ。それ以降、目の前にいる先生の動きを確かめつつ、鏡もちらっと見て先生と自分の動きの差を確かめてみるということをやっていくと、自分1人を鏡に映していても、その横に比較者の存在をイメージすることができるようになって、自分のできていない部分が次第に、ある程度自覚できるようになった。

芸大の授業では、下手な生徒も上手な生徒も一斉に踊る。これを見ることができたのは有益だった。初心の段階では、上手な人が踊っているのを見てもその上手さはよく分からないし、また下手な人の下手さ加減も分かりにくい。けれど両者が一緒に踊るのを見れば、両者の差が見えてくる。そして自分のレベルが上がっていくと、横に比較対照者がいなくても、自然と目の前にいる1人の踊り手のレベルがどの程度か判断ができるようになる。

鏡に映した場合も、そんな風に見ることができればよいのだ。ただ自分だけに魅入ってしまうと、それは自己陶酔になってしまう。だが、そうならないためにどう鏡を使うのか、あるいは鏡を使わないのか、ということを考えてみるのは、有益なことのように思う。

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その数年後の2度目の留学の時、今度はアルスでもウィレンと呼ばれる宮廷舞踊を習っていた。これは2人の踊り手が向き合って同じ振付をシンメトリに踊るという種類のものである。その練習を、鏡のある部屋で1人でやっていて気づいたのだが、鏡があると、1人で練習していても、相手がいるように見える。ウィレンではいつも相手と対称に位置する。向き合ったり、背中合わせだったり、右肩/左肩あわせの位置だったりする。鏡だと左右反転してしまうが、それでも鏡の向こうに自分と同じ動きをしている人がいて、まるで2人で練習しているかのように錯覚してしまう。

ウィレンでは2人が対照的に踊っているけれど、これは1人の人間を2つの違う次元から眺めただけではないか。2人で踊っているけれど、本質は1人で踊っていることと変わりないのではないか、と気づいた。さらに言えば、4人で同じ振付をシンメトリに舞うスリンピ(舞楽のような舞踊)もまた、やはり1人の人間を4つの次元から眺めた姿をそれぞれに描いているのだろう、と思っている。

そう気づいてからは、私はウィレンやスリンピを鏡のある部屋で積極的に練習するようになった。しかし、あえて鏡をのぞき込むことはしない。そもそも踊っているときに相手の方ばかりを向くことはないのだし、鏡に背を向けることだってある。重要なのは、鏡に映っている自分自身の姿を見ることではない。鏡の向こうに次元の異なる、しかし一続きの空間が広がっていると知覚すること、そして鏡の向こうに自分を客観的に見ている誰か(ここでは自分、実際の舞踊であれば相手方、ひいては神)がいるという気配を感じること、なのだ。

私はよく自分の背後に鏡を置いて舞踊の稽古をする。鏡の方は向かない。世阿弥の離見の見というのは、背後からでも自分の姿を確かめることができるような境地を言っていたような気がするが(手元に本がないので確認できない)、自分の背後を知覚しようとする意識状態を作るのに、鏡も1つの助けとなるような気がする。