しもた屋之噺(62)

杉山洋一

ここ数日ミラノは心地良い晴日が続き、日中はかなり温度も上がります。昨晩はシニガーリアの作品ばかりの演奏会を聴きにゆき、2歳まであとわずかの息子がわめき声一つ立てず、機嫌よく手を振り回して調子を取っていたのに感心しました。

彼がずっと東京へ帰っていたので、久しぶりにミラノで会ってみると、自分のところへ物を持ってこさせるのに「ココヘ、ココヘ」と、まったりした大和言葉まがいに言うと思えば、突然「チーズください」なんて頼むので、幼児らしからぬ感じもします。言葉の能力は普通の子供と同じか、外国語とまぜて教えているから遅いくらいで、使える言葉も限られていて、「いや?」「ヒコーキ」「大きい」などなど。一番生活に大事なコミュニケーションは、いきおい「ココヘ」になります。

あれはどういうわけか、バイバイと手を振りながらほほえむと、上目遣いにこちらを見ながら、ペコペコと頭を下げるのです。なんでもスチュワーデスさんを真似して始めたらしいのですが、子供というのは妙なものを覚えるものです。格好があまりに愉快で誰からも失笑を買うのを受けがいいものと勘違いして余計ひどくなったらしい。

基本的にすこぶる機嫌もよく、いつも誰にでもニコニコしている子供ですが、家人曰く父親は恐い人だと認識しているようで(殆ど怒りもしないのですが、愛想もないからか)、昨日は食事中に面白いことがありました。パスタが大好きで、いつもパスタだけを食べてしまい絡めたソースの野菜など残すので、その都度、親と子の我慢比べになるわけですが、昨日はお前が野菜を食わないとお替りはやらないと突っ撥ねたので、息子が折れて仕方なく一口野菜を食べたのですが、すぐに、うわ、これは不味い、とばかりに眉間に皺を寄せて吐き出しました。それでも作ってくれた父親に悪いと思ったのか、イタリアのジェスチャーで「美味しい」を意味する、頬に人差し指をくっ付けて回す仕種をしながら、困った顔をしているのには爆笑しました。こうして子供なりに気を使ってくれると、こちらも申し訳ないな、もう少しマトモなものを作るか、とも考えたりもするわけで、お互いが歩み寄るのはやはり大切なことではあります。

ピアノをさわるのが好きなのは、どの子供も共通だと高をくくっていたのですが、昨日の演奏会の最中、音楽に合わせて機嫌よく腕をふりまわしているかと思うと(指揮しているつもりなのか)、曲の最後のクライマックスで突然万歳するように両手を振り上げて、四六の和音をガンガン鳴らし(ているつもりらしい)ながら、感極まったように顔を震わせるのには、親も周りの観客も涙がでるほど笑わせてもらいました。父親が棒を振っているところなど、殆ど見るはずもないのですし(いずれにしてもあんな風には振らないだろうし)、息子は指揮するというよりも、むしろ本能で調子にのって手を振り回した挙句に、最後に思わず手を上げて感じ入ってしまったという按配でしょうが、何れにせよ子供の感性は、これ程までに素直なものかと感心させられます。

感心させられると言えば、息子は物を片付けるのが本当に好きで、これはとても有難いことです。元あったところに物を片付けないとどうも気分が悪いらしく、たとえばコードレスフォンで電話していると、コードレスフォンの充電器を指差しながら「ココヘ、ココヘ」、さっさとそのコードレスフォンを挿してあった充電器に戻せ、と繰り返すわけです。

今回の日本滞在中、父(つまり息子のおじいさん)と散歩しているとき、父が疲れたよと言うと、一人でタタタタと歩道の端のところに行き、ちょこんと腰掛けたかと思うと、こっちへ来ておじいさんもまあ座りなさい、とやるそうだから、一歳とはいえ、人間というのは相当複雑なことを考えているものだと感心します。そこまで考えられるのなら、ぜひ頑張ってもう少し先まで見通してもらい、ぜひとも音楽など怪しげな愉しみには興味をもたず、堅気の人生を真っ当に歩んでほしいと切望する今日この頃です。

(1月31日 ミラノにて)