アジアのごはん(15)チェンマイのカレー麺

森下ヒバリ

今回は、タイの北部の古都チェンマイに行くと必ず食べる名物料理、カレー麺のカオ・ソイの話。カレー麺は、タイではチェンマイ以外ではほとんど食べることが出来ないので、チェンマイの名物料理となっている。今ではチェンマイのふつうの麺屋さんでも食べられるところが多くなったが、もともとは中国人イスラムの料理屋でしか食べられないものだった。ビルマにも似たような料理があるため、ビルマ料理ではないかと言われることが多いが、歴史を辿ると違うことが分かる。ちょっとふしぎな由来を持つ麺なのである。

チェンマイ旧市街の城壁から門を出てターペー通りを東にしばらく行くと、夜にはみやげ物屋台が並ぶナイトバザールのチェンクラン通りとの交差点に出る。チェンクラン通りを南に入っていくと、チェンクラン通りとチャルーンプラテート通りの間にイスラム通りとでもいうような短い通りがある。

この通りにはイスラム学校、礼拝堂、イスラム料理屋、宝石屋などがあり、住人はほとんどが中国系のイスラム教徒だ。豚肉もお酒も絶対置いていないイスラム料理屋は2軒あり、カレー麺のカオ・ソイと鶏肉の炊き込みご飯カオ・モック・ガイが中心のメニュー。

ここで食べるカレー麺カオ・ソイは、こんな麺料理だ。黄色い小麦粉の中華麺の上に赤いトウガラシ油の浮いたココナツカレースープをかけ、よく煮込んだ鶏肉をのせる。さらにその上にカリカリに揚げた中華麺をのせ、香菜パクチーをふりかけて出来上がり。小さな別皿にマナオ(タイのライム)、シャロット(小赤たまねぎ)、そして高菜漬けが添えられて出てくる。マナオを絞り、シャロットと高菜漬けも入れる。そして、ナムプラーやトウガラシなど調味料を少し加えて味を調え、いただく。

タイ中部主流のさっぱり汁麺のクイティアオとはちょっと味わいが違う。まったりとしたココナツミルクの風味が強いため、カレー風味はそんなに舌に残らない。このカレー麺はターメリックや乾燥スパイスのマサラ、インド風のカレー粉を使うが、いわゆる伝統的タイ料理にカレー粉は使わない。じゃあ、カオ・ソイはカレー粉を使っているからインド料理か、と思うのもまた少し気が早い。中華麺を使うインド料理はない。一方、ビルマのカレー和え麺パンデー・カオスエはカレー味だし、まだ食べたことはないが、パンデー・カオスエのバリエーションとしてココナツミルクスープのオンノー・カオスエというものもあると聞く。また、マレーシアのカレースープ麺ラクサもカオ・ソイに似ている。

ではなぜ、このインド・中華折衷料理のようなカオ・ソイがチェンマイ名物になったのか。その答えがこのイスラム通りの歴史にあった。

バンコクなどの中国人が福建・広東方面からやってきたのとは異なり、チェンマイに住む中国人の多くが雲南省からやってきた人々で、しかもムスリムだというのは、以前から知ってはいたが、彼らがどういう経緯でこの地にやってきたのか、あまり気にしたことはなかった。あるときイスラム通りの店でカオ・ソイを啜りながら、店の表で売られている雲南のお茶を見て、その頃アジアのお茶についてあれこれ調べていたわたしは、はっと思い当たったのである。

各地のイスラム・コネクションを利用して、雲南の中国人イスラムたちは古く元朝以来、交易にかかわってきた。雲南のお茶は優秀なチベットの軍馬と交換され、それは茶馬貿易と呼ばれていた。そのお茶も背の低い馬の背に乗せられて交易の場に運ばれていた。しかし、そうだ、交易はチベットだけではなかったぞ。むしろ、チベット向けは中国の政府がかかわる交易で、個人商人たちの出る幕はない。お茶や生糸など雲南の物産は北や東へ向かう交易路だけでなく、雲南省西部からビルマのバモー、そして川を下って王都マンダレー、パガンへというルート、昆明や西双版納から南下してチェントゥンを抜けチェンマイに至り、さらにチェンマイからメーソットを抜けビルマのマルタバン港(現在のモッタマ、モーラミャイン)へ抜けるというルートがあったではないか。
さっそく調べてみると、わたしが座ってカレー麺を食べていた店の辺りは、まさにその交易路の宿営地、かつて中国人ムスリムの商人たちが荷物を乗せた何十頭もの馬を連れて辿りついては、その馬を繋いだ場所だった。彼らは中国では馬幣(マーパン)と呼ばれ、タイではホー、ビルマではパンデーと呼ばれた。

もっとも、このチェンマイルートは19世紀半ばまでは、山が深く道が悪いためあまり盛んな交易路ではなかったようだ。しかし、1856年に清朝によるムスリム弾圧が起こり、一時は大理にイスラム政権までできたが、結局は清朝によって滅ぼされ、雲南省に住んでいたムスリムがたくさん殺され、ビルマへたくさんのムスリムが逃げ、移住するという事態になったのである。雲南省には当時100万人いたというムスリムが10分の1に減った。雲南に残ったムスリムは南に追いやられ、それまであまり使っていなかったチェンマイルートを交易に使うようになった。19世紀後半から第2次大戦に至るまでチェンマイは中国人ムスリム商人たちの交易路・中継地となったのだ。

馬幣の往来が盛んになってから、このイスラム通りは、現在に近い形で形成されてきたと思われる。第二夫人を交易地で娶り、そこにもうひとつ家を持つのも便利であるし、中国から移住してくる人もいただろう。イスラムに対する迫害から逃れる人もいただろう。中国人ムスリムたちは中国、ビルマ、タイ北部を行き来して物産を運んでいたわけだが、ビルマにはイギリスが植民地化してからベンガル地方のインド人がたくさんやってきていた。ベンガル地方はムスリムが多い。彼らが、中国人ムスリムと結婚することもよくあった。

つまり、カオ・ソイは雲南から来た中国人ムスリムがイスラム・インド(ベンガル)のスパイスを取り入れて創作した料理のひとつなのである。ココナツミルクを使えば、豚骨ダシを使わなくてもコクのあるスープが出来る。鶏の炊き込みごはんのカオ・モック・ガイの方はインド・イスラム料理のチキン・ビリヤニそのままでとくにアレンジはなされていないのに比べて、カレー麺カオ・ソイは小麦粉麺好きの中国人の工夫の成果なのだろう。

カオ・ソイという名前だが、実はタイ語で、米の麺を表す言葉である。カオは米、ソイは細長いものを表す。古くは、カオは料理のことも意味していたので、米の麺に限らず、麺料理という意味合いがあったかもしれない。西双版納、ビルマのシャン州、北部ラオス、北部タイ地方では米麺のことをこう呼んでいた。チェンマイからバスに乗って半日で行けるメコン川の向こうの北部ラオスではカオ・ソイといえば、今でも米麺に肉味噌をのせた料理のことである。北部タイのチェンマイでは、最近はすっかり中部タイで使われる福建・広東系の米麺を表す言葉クイティオに取って代わられてしまい、チェンマイにしかないカレー麺にだけその呼び方が残ることになったと思われる。

ビルマ語の麺を表す言葉はカオスエと言い、パンデー・カオスエなどのカレー麺があるため、タイ料理とは異質なチェンマイのカレー麺カオ・ソイがビルマから来たと思われているのだろう。しかし、カオスエはタイ語(シャン語)カオ・ソイからの借用、訛りである。パンデー・カオスエは、まさに「中国ムスリムの麺」という呼び名。これらカレー麺を考えたのは、ビルマ北東部に住んでいたか雲南に住んでいたか、チェンマイに住んでいたかは分からないが、このあたりを交易していた中華麺が好きなムスリムの中国人商人たちなのだ。中国人ムスリムの妻となったベンガル人奥さんの作、というのが一番ありそうだ。
カオ・ソイを食べると、きまって服に点々と赤い油のシミをつけてしまう。とろりとしたスープ麺は汁が跳ねやすい。いつも後で気付いて、あ〜、しまったと思う。雲南から馬と旅を続けていた商人たちも、シャツにシミをつけて舌打ちしていたかもしれないと思うと、なんだかふしぎな気分になるではありませんか。