万華鏡物語(1)月日は流れる

長谷部千彩

秋に出版する単行本用原稿の推敲を続ける毎日。ぐうたらな私にしては、珍しく真面目に机に向かっている。この本は主に、雑誌のために書いた原稿をまとめたものになる予定。古い原稿だと15年程前のもの。書き下ろしは入らない。

それにしても、15年も前の作品となると、自分が書いたはずなのに、まるで他人の原稿を読んでいるような錯覚に陥る。いまの自分には決して身近とはいえないモチーフやテーマ。予想外の方向に展開していくストーリー。どうしてこんなことを思いついたのだろう、と、自ら首を傾げたくなるのである。

一番そのことを感じるのは、30代半ばに書いた作品群で、ある連載などは、人間の持つ不信感について、毎号毎号ショートストーリーを書いている。男と女、友人関係、親子の間に生まれる、不信、疑念、諦観。字面を見ただけで疲れてきそうなテーマを粘り強く書いている。頑張るなあ、と苦笑すると同時に、当時の私がそういった込み入った感情に興味を抱くほど若く、体力もあったことに気づかされる。一日八時間も九時間も眠る呑気な生活を送っているいまの私には、同じものはもう書けない。

では、15年前が遠い過去だとして、数年前に書いていたものが、身近に感じるか、というと、そうともいえない。やはりそれも過去の自分、いまの自分とは違う他所の誰かが書いたように感じるのである。
不思議なことだと思う。間違いなく自分が書いたものなのに。

15年前の私、数年前の私、昨日の私。どの過去の私とも、今日の私は距離がある。まるで私の足元から伸びる影が我が身と違った形を成すように。そして、その違いこそが流れた月日を表わしているように。
ということは、今日の私は今日にしか存在しないのだろうか。
24時間しかともにいられぬ儚い自分。
過ぎ去った私は、書き残した原稿の中で今日の私に手を振っている。