桜通り

植松眞人

 桜通りと名付けられてはいるが、そこは明らかに墓地の中の小道で、なんとなく妙な心地がする。
 満開の桜よりも、両側に広がる墓地そのものが気になり、桜を見上げる人々とときおり肩をぶつけ、互いに会釈しながら下ばかり向いて歩いている。
 こちらに入れば誰それの墓、その向こうには誰彼の墓と書かれた小さな木片などもあり、そのたびに視線を走らせたり、気が乗ればそのまま墓地と墓地の間を分け入って、消えかかった墓石の名を読んでみたりする。不思議と桜の花が満開になった途端、墓石と人の生き死にとの境界線が曖昧になるのか、桜の花と一緒に携帯電話で写真を撮ったご婦人たちが同じように笑みを浮かべて、高名な歌舞伎役者の墓の前で記念写真を撮ったりもしている。
 間違ってもそんな写真に移り込まないように気をつけながら歩いていると、先ほど電車を降りて、駅の改札を後目にころして歩き始めた私に「桜通りはこっちですか」と声をかけてきた若い女がいた。地味な鶯色のワンピースを着ているのだが、持っているハンドバッグのデザインがモダンなので全体を見ると、とても気を遣ったファッションに見える。黒に近い焦げ茶色をしたバッグは、マチの部分に目の覚めるような赤があしらわれていて、この女の気の強さのような自己主張を予感させる。「こっちもなにも、目と鼻の先ですよ」
 私が言うと、若い女は丁寧に会釈して、ありがとうございます、と礼を言うのだった。
 行き先が同じだとわかってしまうと、この歳で若い女と前後になって歩くのも気恥ずかしい。私は別段用事もない携帯の画面をしばらく眺めたりしながら、女をやり過ごした。 ふりをしているうちに本当に何通かのメールを気を入れて読んでしまい、その内の二通には簡単な返信までしてしまう。そして、さて、と歩き始めると、さっきの女が私の後ろから声をかけてきた。よほどゆっくり桜を見上げて歩いていたのか、それとも両脇の墓石に見とれていたのか、とっくに先を行っていると思っていた女が背後から現れたので、女の「あら」という声に、私は驚いて「これはどうも」と妙に親しげに答えてしまったのである。
 私には昔から気を遣いすぎるという悪癖がある。小学校の頃には、家計が大変だという母のつぶやきを聞きつけて、自分の小遣いで給食費を払い、父親に殴られたことがあった。成人してからも、友人から、お前の知り合いの女に惚れてしまったので間を取り持てと言われて紹介したことがある。しかし、実際は知り合いも何も私もその女に惚れていたのだ。それなのに、先に言われてしまうと自分もとは言い出せず、仲を取り持ってしまったりするのである。別段、気を遣いすぎて悪く思われることはないのだが、結果的に父に殴られたり、女をとられたりして後悔することになる。そして、後悔よりも私が嫌悪してしまうのは、その後悔を鬱々と忘れないでいる自分自身なのであった。
 満開の桜の下を歩いていると、どうしても季節を意識して、過去の出来事を振り返ってしまう。そんなときに思い出すのは鬱々と過ごした時間なのだった。桜が咲き、散り、青葉が芽を吹く様子は、生きることの躍動を感じさせるとともに、私自身のふがいなさを見せつけられているようにも思える。そして、桜が咲き乱れ、はらはらと散る姿を見ることで、なにか自分自身の鬱々とした過去の時間が身体から引きはがされていくような感覚を楽しんでいるのかもしれない。
 子供の頃は家族と一緒に花見に出かけ、働きだしてからも同僚と一緒に桜の下の宴会を楽しみ、結婚し子供ができてからは自分の家族と毎年のように花見を楽しんできた。子供が独立してからは妻と二人でこの桜通りを歩くことが通例となったのだが、その間にも私は必ず一人で桜を見物に出かけていた。
 桜という花は、家族や同僚たちと眺めるときと、たった一人で眺めるときとでは、まるで違う印象を私に与えた。最近の桜は色が薄くなったのではないかと、ある新聞記事が伝えていたのを読んだことがあるが、一人で眺めると、薄い色の桜の花の中から、いくつかの色濃い花びらが目の中に飛び込んでくることがあった。桜だと思っていた花がなにか別の花だったのかもしれないと思うくらいに色濃くなり、時には深紅に思えることがあるほどだった。一人で桜を見物していると、家族や同僚とでは決して見つけることができない深紅の桜を探しているような気分になるのだった。
 不思議なもので、深紅の桜はいつも目の端にあるような気がするのだが、しっかりと見据えることができない。ふいに現れ、ふいにほかの花々の中にかき消されてしまうのだった。
「この女のように」
 私は小さくつぶやいてしまう。女が駅前で私に声をかけてから、なんとなく目の端に現れたり消えたりしながら今またふいに現れた。そんな気がして、まるで毎年私が探している深紅の桜のようだと思ってしまったのだった。
 しかし、私は頭を左右に振りその考えを打ち消そうとする。昔から、私はある事柄とある事柄の共通点を知った途端に、そこになにやら因縁めいた意味を見つけようとする癖がある。因縁があるから大事にしなければ、因縁があるから気をつけなければ。そんなふうに考えてしまうのだが、どうやらそんなふうに考えることで因縁めいたものにとらわれて、ものの本質のようなものを見逃してしまっている。還暦も近づいてきた今になって、そう考えるようになった。
「関係ない」
 私はそうつぶやいて、私の横で桜を見上げている女を眺めるのだった。
「なにが関係ないんですか」
 若い女が私のつぶやきを聞きつけてそう言う。この女からの問いに答えてしまうと、今回の花見が一人で楽しむものではなくなってしまう、という気持ちになり、私は迷う。そんな私の迷いを笑うかのように、女はもう一度聞く。
「なにが関係ないんですか」
 若い頃からずっとそうなのだが、自分よりも年上、年下に限らず、まだ余りよく知らない女というのは、私にとっていつも自分より一段高い階段の上にいるようだ。重ねて発せられた質問に答えないわけにはいかなくなる。
「世の中にはいろんな偶然があるですが、私はついついその意味を考えてしまうんです」
「意味?」
「そう。偶然といえども、なぜこんなふうになっているんだろう。なぜこんなところで会うんだろう、とかね」
 私がそう言うと、女は楽しそうに笑いながら桜を見上げて、
「おじさんと私が駅前で会ったように」
 と言うのだった。
 若い女から、おじさんと言われたことが妙に新鮮だった。これまで会社で接している若い女性たちは私を名字や役職で呼ぶし、家では子どもたちだけではなく妻まで私をお父さんと呼ぶようになっている。まして、外で見ず知らずの人からは名前を呼ばれることもなければ、おじさん、と呼ばれたことはもしかしたら生まれて初めてかもしれないと思うのだった。
「おじさん、か」
 私がまたつぶやくと、若い女は真顔で謝罪する。
「すみません。おじさんというほど老けて見るわけじゃなくて」
 その慌てようがおもしろくて、私は笑う。
「いやいや大丈夫。気分を害しているわけじゃなくてね。これまでの人生で、おじさんと呼ばれたことがないなあ、と思ったんだ」
 私が正直に言うと女は、
「それはおじさんが若いからです」
 そう言って、またおじさんと言ってしまったと女は今度は声を上げて笑う。
「もしかしたら、とても失礼なことを言っているのかもしれませんが、私にとって『おじさん』っていうのは親しみがちゃんともてる人のことだと思うんです」
「親しみがもてる」
「そう。信用できるっていう感じかもしれないけれど」
 そういうと、女は私たちの前から来る私と同年代の男性を相手からわからないように小さく指さしてから、私に口元を近づけて、「おっさん」とつぶやく。そして、その後ろの男性を指さして、また私に口元を近づけて、「おっさん」とつぶやくのだった。おんなが見ず知らずの男性に対して砕けた口調で「おっさん」と小さく声に出したとたんに、この女の若さと世代の違いを強く感じてしまう。
 しばらくの間、女は前からやってくる年輩の男性たちを「おっさん」と私に聞かせる度に私のほうに口元を近づけていたので、自然と私たちの距離は縮まり、まるで連れ添って歩いている訳ありな男女のようになってしまっていた。そして、そう意識した途端、女が前から来た男性を「おじさん」と呼んだ。私は女が他人を「おじさん」と呼んだことにかすかな嫉妬を感じていることに驚くのだった。
 私はここしばらくの間、因縁など信じてはいけない、と自分にいい聞かせてきたのだが、今日ばかりはそんなことはないと思うしかなかった。いつも眺めている桜の花の中でも、ときおり不意に目に飛びこんでくる深紅の花びらと同じような色あしらいのハンドバッグを持った女。一人で眺めようとしていた桜並木に現れ、連れ添うように歩く女。もしかしたら、この女こそ、自分と深い因縁をもった女なのかもしれないと私は思わずにはいられないのだった。
 風が強く吹いた。満開の桜が大きく揺れ、花びらが空に舞い上がり、そして、地上に向かって吹き付けられた。目の前が見えなくなるほどの花びらが舞い上がる。私は至福の中にいた。
 風が止む。花びらが一斉に地面に落ちる。
 その落ちようは得も言われぬ強さがあり、私は一瞬にして丸裸にされてしまったような気持ちになる。桜の花に対する幻想も、いま隣を歩いている女に対する関心も、長い間一緒に暮らしてきた家族に対する思いも、花びらが一斉に地面に落ちた瞬間に、たたき落とされてしまう。
 再び、今度は優しい風が吹き、また人々の楽しげな会話や笑い声が聞こえ始めたのだが、私は身を切るような寂しさに声も出ない。(了)