仕事で家人が数日間日本に戻り、ミラノに一人残った息子は、この数日メルセデスの家で過ごしています。今週の劇場の仕事を終えて週末の休日を使ってミラノに戻る列車に乗り込むと、目の前にちょうど息子と同じ年頃、中学生と思しき少年と、母親が座りました。
「ヤコポ、宿題をしないと」、少し厳しい口調で母親が急かし、コンピュータを開くや否や「ほらメールが来ているわ。宿題は283ページ何某、早くなさい。地理でしょ、地理」。
そう言うと、かばんから地理の教科書を出しました。ヤコポ少年は最初厭がっていましたが、目の前で教科書まで開かれると、仕方なく宿題をやり始めました。
15分ほど経ち、ヤコポ少年が教科書に突っ伏し気持ちよさそうに寝込んでいると、コンピュータで仕事をしていた母親は、やおらヤコポ少年を起こして声を掛けました。
「さあ答えて。アメリカ合衆国独立は何年。アメリカは何人が作ったの」「1865年は何があったの」「どうして南北戦争が起きたの」。
「ええとリンカーンが最初の大統領で南北を統一…」。
「でも何故南北を統一したの。経済的理由かしら、それとも政治的理由から」。
「奴隷制の廃止でしょう」。
「それなら先ず何故奴隷制が必要だったのか言ってくれないと困るわ。南部は綿業が盛んだったでしょう。綿業は奴隷の力があってこそ実現できたのよ」。
「お母さん、もう厭だよ」。
「あらまだヤコポ、国語が残っているでしょ、頑張りなさい、ほら」。
「あら、ヤコポ、ここの自習問題もやってないじゃないの。いい加減にしたら駄目じゃない」。
「お母さん、何度言ったら分かるの。ここは自分で勉強したんだよ。どうして信じてくれないの」。
ヤコポ少年は突然大粒の涙を流して泣き出しました。
「ヤコポ何を泣いているのよ。お母さんは何も言っていないじゃないの」。
後ろの席から、歴史の復習をしている小学生の声も聞こえてきます。
「ええとネロ帝は37年生まれ68年に亡くなって、ええと芸術が好きで黄金宮殿を作って、それから大火災の後のローマを再建して、セネカが家庭教師で云々」。週末のイタリアの列車内はなかなか賑やかです。
ネロと言えば、権力欲の強い母アグリッピーナに犯され、終いは憎しみの末にアグリッピーナに刺客を差向け暗殺したのではなかったかしらん。昔から母は強し、などと不謹慎なことを考えていました。
この数日、ちょうど息子の歴史の試験のため復習を手伝っていて、大変な試験勉強を他の親はどうこなしているのか疑問に思っていたところでした。ですから、目の前の二人の様子は何とも微笑ましく、まるで他人事とは思えぬ心地で眺めているのです。
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2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
ルカの立稽古の指示は、実に細かい。モダンダンスの振付けを一から学べる素晴らしい機会。動きに合わせて、シャとかシュというような擬音を口三味線でつけている。あれは何だったかとずっと考えていて、カンフー映画の効果音だと思い出した。練習が終わって、あの動きはどこから想を得ているのかと尋ねると、果たして東洋の武術だった。彼自身は武術をちゃんと習ったことはないという。
2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
早朝軽い朝食を摂り、川べりを40分程歩く。橋の下では、10歳くらいの少年二人がナイフを柵に刺して遊んでいて、少し怖い。ミラノではこうした光景は見たことがない。劇場のトイレにも、女性の暴力追放とポスターが貼ってある。実際に住んでみれば色々その土地の問題はあるのだろう。
散歩がてら劇場からほど近い橋からずっと川沿いに歩いて、アパートへ戻る途中、右手に鉄条網の張り巡らされた、一際背の高い壁がそびえている。その壁のちょうど真ん中にある、ガラス張りの監視塔で、看守がサンドウィッチを頬張っているのが見え、その奥に顔を覗かせている薄汚れた鉄格子の端々に、シャンプーのボトルなど立てかけてある。
細川さんがアラン・ポーの物語に能を見出したのは、実に自然で、ルカは細川さんの音楽は切れ目がなく、一つの大きな息だという。50分近い一つの大きな息に、どれだけ細かく遠近感を作り上げてゆくかが、演奏者としての挑戦でもある。同じことを二人で思っているが、お互いどこまで迎合せずに相手に拮抗できるかで、最終的な舞台の仕上がりが変わってくると思っている。
2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
アラン・ポーを読んで、アンブローズ・ビアスを先ず思い出したのは何故だろう。時代もスタイルも境遇も違うはずだが、無意識にどこかビアスのように「大鴉」を読もうとしている気がする。個人的にビアスは乾ききって枯渇した恐怖の印象があって、それは日本語で読んでいないからかもしれない。「大鴉」も邦訳で読むと、印象が違って、正直よく分からなかった。自分にとって彼らの描く恐怖は現代のホラーとも怪奇譚とも違うもの。空気が乾くほどに、身体に染み込んだ恐怖はひりひりと肌を焼く印象がある。それを芥川のように生々しい恐怖に捉え、細川さんの音楽を重ねると、言葉と音楽の間にある空間の何かが、有機的に反応しないのだった。それは恐らくルカの演出の方向性とも関わっているのだろう。
2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
相変らず肉を全く受け付けないので、ボルツァーノで何を食べればよいか、実はとても心配していた。劇場前の「サフラン」という怪しげなピザ屋が、それを払拭してくれた。「サフラン」に足を踏み込むと、アラビア語を話す男たちばかりで、最初はこちらを物珍しそうに眺めていた。ピザの影などどこにもない。カウンター横のショーケースに、大きなトレイが6つくらい並び、そのうち二つはいつもご飯が入っていて、一つは白米、もう一つはどことなく赤みを帯びたピラフ風ヒヨコ豆ご飯。後は、ラムなどの肉料理のトレイと、煮込んだ豆や野菜のトレイが幾つか並ぶ。
平皿にピラフ風ご飯をよそって貰い、周りに肉以外のさまざまな豆料理、野菜などをかけてもらう。日によっては、ジャガイモを揚げたオヤキが乗っかっていた。それに自分の好みで青唐辛子の辛いソースをかけたり、ヨーグルトをかけて食べる。実に美味な上、少なくとも肉を食べない限り胃がもたれたことはない。お茶を頂戴というと、砂糖をふんだんに入れた温かいジャスミン茶が出てきて、料理にとても合う。
聞けばこれはアフガニスタン料理だった。コック服を着こんだアフガニスタン人の主人が作っていて、何でもボルツァーノには30人くらいアフガニスタン人がいるそうだ。この数が多いのか少ないのか、よくわからない。アフガニスタン料理は、イラン料理やタジキスタン料理とほぼ一緒で言葉も通じる。何しろ我々は同じペルシャ人だから。ペルシャ人、という部分を殊更に誇らしげに語った。ところで、国の方はどうなのかと尋ねると、駄目だねと困ったように手を挙げた。イランに移住しコックをして暮らしていたが、イランでは子供たちが学校に通う資格を与えられなかった。だからボルツァーノにやってきたんだ。ここでは子供たちは学校に通っている。イタリアの教育システムは素晴らしいよ、と話してくれた。
2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
ルカは細川さんからの二つのキーワードを軸に演出をつけてゆく。「大鴉」の内容と能舞台の相似。主人公の男性が託されたメゾソプラノのシャーマン性。能の幽玄な世界は、現代のホラー映画として表現はできない。メゾソプラノが詩を語る、本来別人格である主人公が、第三者である彼女の身体を借りている。その透明な客観性こそ、細川さんの音楽の魅力を浮き立たせる大前提だと思う。全てを、べったりと塗りたくるような演奏では、どこか凛とした、張り詰めた空気の緊張と恐怖は表現できない。全て独白のみによって成立する音楽には、細かな遠近感の設定が不可欠だが、それらを壊さずどこまで長いフレーズを作れるか、結局のところ音楽稽古はそれに尽きる。
2月某日 ボルツァーノ アパート
昼休み、ルカと二人「サフラン」で話し込む。ちょうど二人ともいるので、思い立ちブソッティに電話をする。先日家人が会いに行った時は、ずっと口を噤んでいたというので二人とも心配していた。ロッコに呼ばれて電話口に出てきたブソッティの声が明るくて、思わず涙腺が緩んだ。
メゾソプラノのアビーとは「大鴉」の韻をどう踏んでゆくか、あれこれと考えている。普通に韻を強調すると、実につまらない。大きな弧を描くフレーズの方向性の中で、同じ調子が続くことをていねいに避ける。水の上をはねてゆく石のように、それぞれの点から水紋が広がると、方向性が与えられ遠近感が生まれる。言葉が吸い込まれてゆく空間は、無限に広がる闇。
2月某日 ボルツァーノ アパート
歯に詰め物をされ、とても厭だという夢にうなされた翌朝、ミラノの家人から歯の詰め物が取れたとメールが届く。
朝、トレントの音楽高校生劇場訪問。演出家と指揮者と対話する会とのこと。ルカは日本文化の特徴について話、能について話す。いかに日本文化が西洋文化から遠い存在かと殊更に強調しても始まらないので、能舞台と古代ギリシャ劇の関わりについて話す。今でこそ東洋も西洋も時間は一方通行で進むけれど、キリストが生まれるまでは、西洋も東洋も、時間の推移に対して今よりずっと繊細だったに違いない。
アパート前の道を20メートルほど進んだ角の金物屋。ナイフや斧が並ぶショーウインドウに、カウベルと角笛が鎮座している。今まで観光客用と思い込み気にも留めなかったが、店内を見るとずらりとカウベルが並んでいる。形は3種類ほどだが、ごく小さなものから大きなものまで一揃い20個は下らない。もしかすると牛飼いは、放牧牛を全てカウベルで聴き分けられるのか。
2月某日 ボルツァーノ アパート
林原さんから頼まれていたヴァイオリン小品を送る。彼女はチベットの子供に教育支援をしていて、日本にいるチベット人の友達も聴きに来るので、チベット音楽を主題として、最後は元気よく終わること。それから政治的アピール絶対禁止。
こういうリクエストを受けて曲を書くのは初めてだが、本当に古くからの友人なので、面白がって引受け、道孚県の旋律を使うことに決める。タウは中国チベットの境にあって、華麗な家造りの伝統が守られている土地。その昔はタウを「道塢」と書き、チベット語で馬を意味したと読み、題名は素直に「馬」とする。リズムを西洋式に定着するだけで、音楽が途端につまらなくなり、途中何度か続けるのをやめてしまった。
2月某日 ボルツァーノ アパート
「大鴉」に関しては、音楽と演出は有機的に関わりあうので、音楽稽古と立稽古を分けずに、同時に練習を進める。原文の解釈について喧々諤々さんざん話し合った後、演出はルカが本能的に頭に浮かんだ動きを付け、音楽は前後の関係を鑑みて、繋がるように論理的に組立ててゆく。ルカは内容を説明するようには演出したくないと言うのを聞いて、羨ましく思う。自分には本能的に決めてゆく自信はないが、かと言って、詩と無関係な音も作れない。尤も、方向性さえ決めてあれば、後はそれを本番で崩すかだけに集中できる。
2月某日 ボルツァーノ アパート
折角、景色のよいアルプスの麓にいるからと、早朝川沿いを歩いている。どうしたことか、チロル帽と伝統衣装に身をまとった若い男女3人、まだ全く人気のない路地を、笑い声とともに走ってゆく。誰もいない路地に彼らの姿だけを認めると、まるで時代がすげ替わったよう。ここに来たばかりの頃、整わない身なりで裸足の男性が、目抜き通りに仁王立ちしているのに驚いた。行き交う人々は全く気にも留めないのも、不思議だった。
たとえ比較的暖かい土地とは言え、真冬にここで裸足で歩く男性に会うと、さすがに衝撃を覚えたが、彼はあれから何度も街ですれ違っているので、恐らく誰もが慣れているに違いない。丁度時期的にカーニバルに差し掛かるところで、顔を白塗りにしたジプシー女性が、アルルカンの衣装で寂しそうに風船細工を売り歩く。
川沿いの道を歩くと、四方の山々は乳白色の靄に包まれ、まるで見えない。鳥の囀りと、川のせせらぎだけが聴こえる。山の方へ歩いてゆくと、規模は小さいが立派な屋敷が散在している。屋敷というより、ちょっとした城に見えるものすらある。
しきりに息子が歴史の試験が大変だとこぼすので、西暦400年から900年くらい、フランク王のメロヴィング朝とロンゴバルド王国あたりから、カール大帝、カロリング帝国の凋落辺りまでの勉強を手伝ったが、こうした屋敷は、もしかしたらカロリング帝国終焉期から乱立した貴族が建てたのかしら、などと想像すると面白い。
前にトリノの貴族の屋敷に遊びに行った時のこと、小さな丘向こうの別の貴族とは今も本当に仲が悪く、ずっと悪口を言っている姿は、まるで冗談のようだったのを思い出す。理由も奮っていて、「先祖代々仲が悪いから」だと言っていた。
詳しく知らないが、もしカロリング朝で生まれた貴族層が今に続いているのなら、彼らの先祖はカロリング朝フランク王の友人だか親戚ということか。日本の貴族のように倭国の豪族が起源と言われると、天皇家に近い印象もあるが、イタリアの貴族のようにそれより500年近く後のカール大帝のお友達と考えると、今の政治家と大して変わり映えもせず、よほど世俗的で愉快な気がする。
川に沿って歩いていると、突然黒々とした鴉六羽がバサバサと大きな羽音をさせて飛んできて、目の前の枝に留まった。何か貰えると思ったのか、こちらをじっと見つめている。そのうち一羽は諦めて飛び去ったが、何故かまた戻ってきた。5分程互いに立尽していたが、時間もないので散歩を続ける。
橋を渡り少しゆくと、目の前に小さなロープウェイの駅がある。普段ロープウェイに別段興味はないが、駅の下に立つと、切立った崖の向こうには何があるか、俄然興味が頭をもたげた。早朝で周りに人影はなかったが、始発の丁度5分前に臙脂色の駅舎に電気が灯った。古ぼけた小型ロープウェイで、聖ジェネージオに向う時はまず崖を一気に昇りつめ、そこから山伝いに這うようにして進み、10分程で山上の小さな街に辿り着く。
乗客一人車掌一人だったので、勢い四方山話に花が咲く。ボルツァーノにある飛行場を、市民投票で廃止したこと。誰も使わないし、大気汚染の原因だと言う。思わずミラノで出会ったタクシー運転手が、ボルツァーノ市民を酷い言葉で罵っていたのを思い出す。ボルツァーノは自治県なので、市民の税金は国に納めずに県に納めるのだと言う。その上、国から特別助成金を貰っているのだから、当然経済は潤沢になる、というのが、タクシー運転手の言い分だった。
聖ジェネージオは標高1087メートル。ボルツァーノは標高262メートルだから随分高くまで昇った。ボルツァーノの街からは想像すら出来なかった見事な眺望が広がり、山一つ越えれば別世界になる山の魅力を思い出した。眼前の山々の尾根が朝日に真っ赤に染まると、流石に言葉を失うばかりだ。尾根と言っても、この辺りは南チロルの土柱と呼ばれる、尖った柱状の奇観が続いていて、尾根という言葉のなだらかな印象からは乖離している。雪が野原のそこかしこに残っていて、ボルツァーノに比べずっと寒い。伊独語二カ国語が標準語として認められているボルツァーノでも、街で見かける表示は、全て伊語そして独語の順番だったのが、聖ジェネージオでは、独語、伊語の順番に入れ替わっていた。後で読んだが、3000人の住民のうち97パーセントが独語話者だと言う。
2月某日 ミラノ自宅
週一日の休日を使って自宅に戻る。息子からのリクエストで毎回ボルツァーノからはジャムを二瓶持参。余りに美味なので、二瓶買っても、数日で底をついてしまう。先週は息子のために理科科学の本を、今週は歴史関連の本を買ってミラノに届けた。
「大鴉」でのオーケストラとの練習風景を思い出す。一見易しそうだけれど、こういう楽譜を納得ゆく音に仕上げるのは、決して簡単ではない。西村先生の練習もそうだったが、自分が欲しい音、楽譜が欲している音が出るまで諦めてはいけない。一度音の質感、フレーズの方向性、音の温度、空気の密度、明度、楽器の彩度、沈黙の質感、そんなものが見え始めれば、後はオーケストラ自身が一気に仕上げてくれる。その瞬間まで、自分と目の前の作品とそして何よりも目の前の音楽家を信じ続ける。
すると、見事に音楽が一気に変わる瞬間が訪れる。
強烈な皮膚感覚を伴う体験だから一度目にすると忘れられないし、演奏者の眼の光がまるで変わるのが不思議で、輝いてくる。
(2月27日ミラノにて)