グロッソラリー―ない ので ある―(36)

明智尚希

良い思い出に浸って、悪い気分になる。

子供は本能で動く、大人は煩悩で動く。

期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいのを期待したいのを……。

まもなくまもなく言うな。このあとすぐこのあとすぐ言うな。

できると思うことはやるな。できそうだと思うことをやれ。

酔いは酔いのための酔いであってはならない。酔いは何かに向けられて初めて酔いとなる。酔うことで上っ面の屋根と建屋が吹っ飛んで、地中からめきめきと育ってくる恐るべきものがある。

真夏のカンカン照り。砂は我が名は砂であると虚勢を張りながら胸を張る。そこへゲリラ豪雨、泥。

【散々文のはじめ】

「あなた普通の人じゃないね」との風俗嬢の慧眼に小さく小さく憤慨する。

あまり車の通らない道を、一台がさっそうと通る。次もあるのではと思う。(ここはチャリンコルーレットの場だ)

原稿に向かうには、夏ならば冷房がきんきんに利いた空間が必要だ。

義務があるだけ幸福だ。

暇だからといって飲酒してはいけない。

睡眠障害、鬱病、パニック障害、不安神経症、空間恐怖症、対人恐怖症、心身症、起立性調節障害、自律神経失調症、統合失調症陰性、神経性じんましん、気分変調症、大球貧血症、神経性片頭痛、アルコール依存症、色弱、震顫、軽度てんかん、腎臓病、慢性中耳炎、難聴――僕らはみんな生きている。

本は読めない。着想の嵐に立ち向かえないから。

長い沈黙は、過去をたぐり寄せる。

逆境は逆境。乗り越えられる逆境などない。

好きになるのは早いが、嫌いになるのはもっと早い。

自分の中に、自分などいない。

幸運は飽きっぽい性向。あきらめても、続けている人に、不承不承に目配せする。

何かを信じるには、信じる基盤を保つための素養が必要である。

人が恐く、嫌いではない。

生きてりゃあ死ぬことだってある。

生きている限りは人間ではない。

人の不幸に接した時のみんなの陰湿にして盛大な喜んでいる顔ったらない。

他人は、ちょっとした失敗をした人間を、あらゆる方策を講じて糾弾する。

【散々文の終わり】

人格者はえてして模範的な傍観者になりやすい。

叶わなかった夢、報われなかった努力、それらが夜の暗闇の正体だ。

アルコールで苦しみ、アルコールで楽になる。

日中は酒を飲む。現実という裏社会から逃れるためだ。

歌われている、苦しみ、悲しみ、痛み、そんなもの実生活で総ざらい経験した。

すれ違いざまに、いちいちこちらの顔を見るなよ。

種類の憎しみやら悲しみを抱えながら、紙を破る。

不快を恐れて感覚を殺していたら、不感症になってしまった。

男は忘れようとして忘れられないが、女は忘れようとしなくても忘れる。

命の危機にあっても他人は冷たい。結局は自分が第一。

すがるものが何もないというのは、何事にもまさる強みだ。

人は小さな不幸には興味を持つが、大きな不幸となると退散する。

死ぬことほど、簡単で難しいことはない。

一人の生命より重いもの、それは個々人の生活の安泰だ。

週末の飲んだくれた帰り道、わしは友人から突然やや厚めの封筒を受け取った。家で読んでみてくれと言う。友人も別の誰かから受け取ったらしい。アルコールが入っていたこともあり、ことの顛末や封筒の中身については何も聞かずにそのまま友人と別れた。
翌朝、その封筒を開けてみると、右上をゼムクリップでとめられたA4サイズの紙の束が出てきた。断章と顔文字がずらりと横書きに並んだワープロ原稿だった。表紙には「グロッソラリー ―ない ので ある―」とあり、下のほうに「忽滑谷源八郎(※ぬかりやげんぱちろうと読むのか?)」と記名してあった。
なぜわしにこのような原稿を託したのか判然しないまま、とりあえず少しずつ読み進めてみることにした。細かい内容には触れまい。ただ、断章はバラエティ豊かで、口語体もあれば文語体もあり、扱う分野も多岐に渡っていた。アフォリズムもあるし実験的な試みもしている。体裁の整合性が取れているとは言い難いが。
そうした奔放さや顔文字の多様から、若いかもしくは複数の書き手によるものかとも思ったが、「わし」と表現しているのを素直に受け止めれば、年配の人間による作品としておくのが穏当だろう。しかしよくここまで書いたものだと感心もした。

さて、タイトルにある「グロッソラリー」とは何のことか。外国語を含む辞書類には一切載っていない。インターネットでかろうじて一件だけ引っかかった。種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』である。早速購入し「グロッソラリー」について調べてみた。氏の定義では、「霊媒や意識不明者の発する言葉」とあり、また「グロッソラリーは『グロッソ』(舌の・言語の)と『ラリー』(l(エル)とrの音の区別がつかず、まさにラリること)の結合語である」としている。
その他のナンセンス関連の本を渉猟したが、「グロッソラリー」については上記の説明しか得られなかった。おそらく言葉としては存在していながらも、使われる機会が極端に少なく、決定的な意味はないのだろう。外国語スペルが見つからなかったのもその証拠と言えよう。忽滑谷氏は酒への言及も多いことから、酔って意識が混濁した状態で書いたと言いたかったのだと推測できる。
また「ない ので ある」のダブルミーニングについて、「ないからある(無という有)」と「ないのである(無)」という具合に作品内容を両方に位置づけたのだろう。こうした曖昧性、意味が複数取れる表現、更には意味の所在が明らかでないものも本文に散見される。また、断章と絵文字のバランスが必ずしも妥当でないこともある。著者の持ち味と解釈しておく。しかし断章の文字数をほぼ統一している点がある一方で、前掲のように不統一な箇所もある点は疑問に残る。何でもありという考えなのだろう。
前置きはこれくらいにして、まずは読んでみることをお薦めする。忽滑谷氏が健在であることを祈りつつ。