知られざるイヌ(年)の傑作

北村周一

父には友達が少なかった。
少ないというより、ほとんどいなかったように思う。
いるとすれば、戦友の二人、山梨さんと、杉山さんくらいであろうか。
山梨さんは代々醤油屋を営んでいたが、そのころには廃業していて、
土地を切り売りして生きているようだった。
昭和三十年代中ごろのことである。
父はその山梨さんから土地を買い付けた。
けれども、話がうまくまとまらず、一番欲しかった繁華街の土地はあきらめて、
電気も満足に通っていないような、荒れた畑地を半ば強引に手に入れたのだった。
騙されたというか、裏切られたとでもいうべきか、
以来山梨さんとの付き合いは途絶えてしまった。
しかし、世の中変われば変わるもので、
繁華街の旧市街地は、道が狭いためにその後あまり発展せず、
父が購入した、いわば新開地のほうが、急激な発展を遂げたのだった。
昭和四十年代に入り、家のわりと近くに清水インターチェンジが出現し、
土地の良し悪しでいえば、立場が事実上逆転してしまった。

そんなある日のこと、めずらしく戦友のひとり、杉山さんがわが家を訪ねて来てくれた。
一匹の子犬を連れて。
クルマに酔ったその子犬は、家の庭で少しく吐いた。
そんな姿がなんともあどけなく、家の中で飼いたいと父に申し入れてみたが、
聞き入れてもらえなかった。
杉山さんは温厚な人で、自分が飼っていた四国犬が子を産んだので、
父の犬好きを知り、一匹分けてくれたのだった。
それから、外で飼えば十分ですよと教えてもくれた。
古風な血統書が付いていた。
名は雲仙号。生後四か月ほどの男の子。大事に飼おうとこころに決めた。
とはいえ、雲仙号ではちょっと重たかったので、名前を能登に替えた。
母もぼくも輪島生まれだったからである。
能登はすくすくと育ち、大きくなった。
四国犬は、血筋的には紀州犬の親戚筋にあたり、中型犬ではあっても、気性が荒い。
特にオスは、家族には懐いても、見知らぬ人には獰猛な一面がある。
綱を切っては、家の外へ飛び出すこともままあった。
そしてよく咬みついた。
見てくれは可愛いので、撫でようと手を差し出すと、ぱくりと咬むのである。

昭和四十年代半ば過ぎ、能登が五、六歳のころ、家の増改築の工事が始まった。
ぼくが大学に入り、上京して2年ほど経っていたと思う。
帰省すると、能登がいない。犬小屋はそのままなのに。
四国犬の能登は、どちらかというと猟犬タイプで、嗅覚が鋭いので、
ぼくが帰って来ると、それを察知して必ず吠えた。
かなり遠くからでも、能登が吠える声が聞こえた。

父は真面目いっぽうの人だった。
本格的な増改築工事が始まるまえに、能登を保健所に連れて行ったのだ。
清水の街の中央を、巴川という川が流れている。
その土手沿いに、保健所がある。
ふだんは何をいってもわれ先にと進みたがる能登ではあるが、
父の話によれば、土手の道を引きずるように連れて行ったらしい。
さいごは、両腕に抱えて。

それから20数年ののち、ぼくは犬を飼うことにした。
名はラク、ウェルシュ・コーギー・ペンブローク種の女の子。
いまの家で、13年と2か月生きた。
雪降る二月の末日、わが家にやって来て、13年後の同じ日に荼毘に付された。
やっぱり雪が降っていた。
ラクを飼ってみてわかったのだけれど、
むかし飼っていた、いや、飼い切れなかった犬たちの記憶が、甦って来るのだった。
もう忘れてもいいようなことまで。

 家族には見せぬ笑顔もそれぞれがラクを介してゆるすひととき