刻々と年の終わりが近づくある日、実家から長方形の青いボール箱が届く。箱の中にはビニール袋に詰められた米と、小さな柚子が二つ入っていた。柚子は実家の庭に生っているものだ。冬になるといつの間にかかわいらしい黄色の実を結ばせているのに気づいては、窓越しに眺めていたのを思い出す。
この年も正月の準備を一切せずに終わろうとしていたときに、子どものころの年の暮れの記憶がよみがえる。家のあらゆる方角を清めるための大掃除、しめ縄の準備、おせち作りの手伝いなど。あのころはひとつの行事として楽しんでいた。
東京にいるこの数年間は慌ただしく過ぎていく日々を暮らすのが精一杯で、あらゆる年中行事を無視して過ごしているような気がする。季節に沿うように生きていくのはこんなにもむずかしいことだったかと、ふと考えこんでしまった。
すこしだけでもやってみようか、と腰を上げる。これはとても気まぐれな思いだ。気まぐれにふらふらと、スクイジーを取り出して窓ガラスを拭く。床は雑巾で水拭き。埃がついているものをひとつひとつ磨く。くしゃみがとまらない。ベッドのシーツやカバー類を替え、要らない書類や物は捨てる。掃除は浄化、とよくいわれているが、年の暮れにやるこの掃除こそ、凄まじい威力を発するのではないか、と思うぐらい気分が良くなっていく。
落ち着いたところで、コート、マフラーを着込んで商店街へ向かった。雲ひとつない真っ青な空が気持ちいい。道は日が差して暖かいが、吹く風は冷たく、冷気が鼻にツンと沁みる。コートのポケットに手を突っ込み、しめ縄を買うか作るか、酒は何を買うか、あれこれ考えながら川沿いを歩く。いつもの買い出しと然程変わらないのに、何やら違う感覚がするのは、やはり年の区切りをつけているからなのだろうか。
鶏肉屋や八百屋で煮物の具材、漬物屋でぬか漬け、総菜屋でかまぼこなどを物色、酒屋ですこしだけいい日本酒を買う。しめ縄の藁は売っておらず、あきらめる。代わりに小さな花屋で松の木の枝と榊を買う。松の枝は玄関扉に飾り、榊は小瓶に生けた。ついでに、小さな柚子も飾る。正月の切れはしのようなものしか準備できなかったが、きっとこれでいいのだ。
松や榊の葉の鮮やかな緑色が、空気に溶けて広がり、部屋に浸透していく。そこに美味しい酒とごはん、本年の出来事やあれやこれやが混ざって結晶のようなものになるのだとしたら、これは案外良い始まりなのかもしれない。