そこに写っていたのは確かに自分だったと思う。
深夜に高速道路を走る長距離バスに乗って、梨木正治は窓の外を見ていた。
高速道路の高架のつなぎ目が、心地の良い振動となって伝わってくる。時折、外灯が密集したエリアがあり、煌々とした光に高速バスの窓が、唐突に浮き上がってくる。
梨木は前日の仕事がなかなか終わらず、いったん家に帰って着替えてから出ようという計画も無駄になり、スーツ姿のまま深夜十一時過ぎに発車するバスに乗り込んだのだった。新宿は平日の深夜だというのに人がいっぱいで、JRの駅前も人でごった返していた。そんな人混みをぬってバスに乗り込むと、不思議と梨木が乗ったバスだけが乗客が少なく、梨木の隣も空席のままだった。
スーツの上着も脱がず、ネクタイを緩めないまま、梨木は窓ガラスに頭を付けて眠ってしまい、気がつくとバスは高速道路を走っていた。せめてネクタイだけでも緩めようとしたのだが、疲れ切っていたのか、身体がうまく動かせず、そのまま心地よい振動に身をゆだねた。
時折バスを包む外灯の光に目を細めていた時だった。梨木の乗ったバスの真横を、同じようなバスが併走していることに気付いたのだ。うとうととしながら、それに気付いた梨木は、ぼんやりと隣を走るバスに目をやっていたのだが、次第にそのバスが奇妙に思えてきたのだった。
まず、高速道路をバスが同じ速さで併走することが不思議だった。どちらかが追い越していくならわかるが、ほぼ同じ速さで走り続けることなどあるだろうか。そして、この二台のバスが同じように揺れているのだった。その証拠に、梨木が窓に額をつけてぼんやりいと眺めているとき、隣を併走するバスがまったく揺れているように見えないのだった。同じタイミングで揺れているのだ、と梨木は思った。この二台のバスはまるで鏡に映っているかのように、同じ速度で同じように揺れて隣を走っているのだった。
昨日、梨木は二十年勤めた会社を辞めた。大学を出てすぐに勤め始めた会社だが、営業という仕事は梨木には向いてはいなかった。人と話し信頼を勝ち得て商品を売るという、いたってわかりやすいオーソドックスな仕事だったが、向いてはいなかった。ひとつ商談をまとめる度に彼は何かを失う気がしたし、その対価である収入もそれ相応には思えなかったのである。
勤め始めた頃には、歩合給ではないということが梨木の心を安定させていた。毎月、いくつの商品を売ったのか。どれほどの会社の信頼を勝ち得たのか。そんなことをひとつひとつ気にすることがとても不自由な生活のように思われたのだった。
しかし、それは最初の数ヶ月の話だった。やがて、一定の収入を得るために、大事な時間を売り渡しているような気がして、通勤電車の窓ガラスに映る自分の顔を見ることができなくなった。それでも、梨木が仕事を続けることができたのは、幸か不幸か致命的なミスをすることもなく、決定的なトラブルを被ることもなく、淡々と社会人としての人生を送ることが出来たからだ。梨木の社会人としての人生はいわゆる平々凡々なものであった。若手と言われた頃から、中堅と呼ばれるまでキャリアを積み、いよいよ管理職へと歩みを進めるあたりで、梨木は立ち止まってしまったのだった。
梨木は妻の芙美子と大学時代に知り合ったのだが、彼が就職を決めた時、彼女はこう言ったのだった。
「ねえ、あなたが思うほど、あなたは営業に向いていなくはないと思うの。でも、心配なのは管理職になってからよね」
喫茶店のウエイターくらいしかやったことがなかった梨木には、芙美子の言っていることがあまりよくわかってはいなかった。しかし、四十代に入り、部下を持たされ、自分も管理職になると、その意味を思い知らされるようになったのである。
自分には管理能力がない。部下を二人持たされた一ヵ月後にはそう思わざるを得なかった。
梨木の下に配属された若い男女二名の新入社員は最初の一週間、とても熱心に梨木の話に耳を傾けていたのだが、二週間後には梨木の話を聞くよりも、新人二人で話すことが多くなり、三週間後には互いの目と目だけを見ることが多くなった。四週間後、梨木は上司に呼び出された。そして、高い求人募集広告費を使って採用した新人二人が入社後わずか数週間で恋愛関係に陥り、しかも揃って会社を辞めたいと言っているということを伝えられた。これは梨木の監督不行き届きであり、管理者としての能力のなさを露呈したものだと叱責したのである。
以降、何人かの新人が梨木の下に配属されたのだが、いつも別の管理職とのダブルマネジメントという状況だった。つまり、梨木は管理職としての能力を疑われ、試されながら約一年を過ごすことになったのである。そして、その結果が芳しくないものであることは、梨木自身が一番よく知っていた。日に日に覇気がなくなっていく夫を見て、芙美子は何度か言葉をかけたがその度に大丈夫だと梨木は答えた。
梨木は本当に大丈夫だと思っていたのだ。自分はこの仕事を深追いすることはない。向いていないならきっぱりと辞めようと考えていた。無理をしてもろくなことはないとわかっていたからだ。ただ、辞めざるを得ないと感じ始めてから、別の心配が心を浸食し始めた。
収入だった。梨木のバランスが崩れたのは金の心配をした瞬間だった。入社から二十年。そつなく仕事をこなしていた梨木の収入は悪くなかった。いや、同年代の友人たちに比べると梨木の収入は比較的多く、妻の芙美子と裕福な暮らしを送ることができたし、高校生になる娘もなに不自由なく育てることができたのである。
仕事にも出世にも欲というものがなかった梨木だが、それは彼が生まれてこの方、金銭に不自由することなく暮らしてきたからだった。普通に仕事をしていれば、普通に暮らせる。その事実が、管理能力がなかったら辞めればいい、という楽観的な気持ちにさせていたのである。
しかし、実際に仕事を辞めなければならない、という状況が差し迫ってくると、梨木は目の前がくらくらするような恐怖を感じるのだった。そして、いまの暮らしを可能にしている仕事が出来なくなるという事態は避けなくてはならない、と強く思うようになった。そして、そのためには管理能力を強化しなければならないし、それに加えて、上司に対しては「できない」という言葉を発してはならないと強迫観念のように思うのだった。
「ねえ、会社でなにかあったの」
そう芙美子が聞いたのは半年前の夏の夜だった。
「なにもないよ」
梨木が答えると、芙美子はこれまでに見たことがないほどの悲しい目をして梨木を見つめるのだった。
「お金のことを最初に考えるようになったのね」
芙美子はそう言って、梨木と目を合わせることがなくなった。その一言が梨木の思考に強く影響を与えた。確かにそうだった。上司から何かを言われても、それができるかどうかよりも、その仕事をすることで収入がなくなることはないのだ、と考えるようになってしまっていた。
お金のことを最初に考えるようになったのね、と芙美子に言われた瞬間から、梨木は金銭のことをより明確に、一番に考えるようになった。実際にはずいぶん前からそうなってしまっていたのかもしれない。
もしかしたら、と梨木は考えた。お金のことを最初に考えている、という指摘を芙美子にされなければ、知らぬ間にお金のことを考えない日々が戻ってきたかもしれないのに、と。しかし、はっきりとそう言われてしまったら、もうどうしようもない。あの日、芙美子が言葉にしてしまったことで、梨木の思考は「お金のことを最初に考える」という形に限定されてしまったのだ。
金のことを最初に考える、ということは損得を最初に考えるということだった。最初に損得を考えるということは道徳を後回しにするということだった。
「ああ、私は人後に劣る人間になってしまった」
梨木は自らを嘆いた。
深夜バスは高速道路を走り、梨木を故郷へと運んでいた。もうすぐ正月も終わる。とにかく、墓参りに行き、菩提寺に参詣し、身を清めようと梨木は思った。
いま、併走するバスの窓に映る、自分そっくりな男はどちらの自分なのかと梨木は考えた。
これまで何不自由なく生きてきた、金のことを最初に考えるような人間ではない自分自身なのか。それとも、金のことを最初に考える人後に落ちてしまった自分自身なのか。そんなことをうとうとした頭で考えているうちに併走していた深夜バスをさっきよりも間近にあり、窓に映った梨木そっくりな顔はとても大きくなっていて、その表情は軽蔑してもしきれないほど卑下たものだった。(了)