別腸日記 (28) 竹林から遠く離れて(中編)

新井卓

彫刻家、絵描き、写真屋の打楽器トリオ〈チクリンズ(竹林図)〉の名前は、「竹林の七賢」の故事から拝借した。俗世から1ミリも脱する気配のないわれわれには──と言っても彫刻家の橋本雅也だけは浮き世からかなり遠い人であることは、人々の認めるところであるが──もったいない名前である。

ところで、三国時代のボヘミアンのように聞こえがちな竹林の七賢の物語だが、当時はその暮らしぶり、思想、話し方そのものが命がけだったようで(実際、嵆康/ジー・カンという人は風紀紊乱の罪に問われ処刑されてしまった)、その意味で彼らの活動は積極的/批判的/政治的ドロップアウトといってよい。夜中にみなで踊ったりすることが違法で、道ばたで歌うだけで職務質問にあうこの日本という国で、七賢の精神性はわれわれに引き継がれているのだ、と、無理矢理にでも信じよう。

わたしの音楽体験は、ずいぶん長いあいだ「習いごと」であったのかもしれない。物心つく5、6歳のころからピアノを習いはじめ、17、8で受験を理由にやめるまで、音楽、イコール「練習すること」だった。高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いていた時もそうだったし、もっと後で友だちにギターを教わろうとしたときも、それは変わらなかった。

ひとつ言い添えたいのは、わたし(と母と弟)のピアノの先生はたいへん素晴らしい音楽家だった、ということである。彼女は日本を代表する気鋭の作曲家で──お名前を出すのはご本人の名誉に関わるので、仮にK先生とする──ピアノをつづけられたのは、毎週K先生にお会いしたいという一心からだった。むしろそれだけが動機だったため事前の練習はたいへんお粗末で、どれだけ迷惑だったか知れず、今となっては身の縮まる思いがする。

K先生は何も話さずとも、その穏やかな佇まいの内奥から、澄んだ知性と精神性が絶え間なく発散しているような人で、子どもながらに強い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。幼いころK先生に出会わなければ、わたしはおそらく、アーティストにならなかったに違いない。

ピアノを練習していると、楽譜にいろいろな指示が見える。音符を正しく追いかけることすらできないのに、”amoroso”(アモローソ=愛情ゆたかに)なんて、どうやって弾けばいいのだろう。どうやら「音楽」とは、何よりも技術の研鑽であり、膨大な時間と集中力を費やして身体を調律していき、その上ではじめて、活き活きとした感情とともに表出されるものであるらしい──次第にそう考えるようになってしまうと、その果てしない道のりと、自分の手の遅さに無力感ばかりが募っていった。一方で、音楽通の友だちからジャズを、ビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソン、キース・ジャレット、とりわけセロニアス・モンクの存在を教わると、それら呪術的な力をもつ音の連なりに圧倒されると同時に、自分で練習する「音楽」未満のものとの断絶に耐えられなくなって、いつしか、ピアノの前に座ることは滅多になくなってしまった。

それから、半端に調律された、わたしの音楽の身体はそのまま放置され、貪欲に耳だけを澄ませる時間がつづいた。旅の途中で出会う音楽も、レコード屋やインターネット配信で手当たり次第に試聴する雑多な分野の音楽を、手の届かない何かに対する憧れに似た感情とともに、聴いていたのではなかったか。

それから、音楽について、というよりも、わたし自身の身体のありかたについて、考えることになった契機が何度かあったように思う。十五年ほど前に煩った全身麻痺の病はもちろんのこと、不思議なことに、依頼撮影の取材先で出会った人類学者・木村大治教授から伺った、バカ・ピグミー(カメルーンからコンゴ、ガボン、中央アフリカ共和国にかけて生活するピグミーの民族グループ)の暮らしのことを、いまでも頻繁に思い出す。
(つづく)

お知らせ:本日(2019年6月1日)から、横浜で「チクリンズ」の三人の小さな展覧会が始まります。
GRAYS, SEEING
新井卓+橋本雅也+藤井健司
会期: 2019年6月1─9日 / June 1─9, 2019
時間: 土日 Sat/Sun 11:00─19:00 / 月─金 Weekdays 15:00─19:00
場所: 新井卓事務所 横浜市南区高砂町1-3-4-1F
詳細: http://takashiarai.com/grays-seeing-3-persons-exhibition/