しもた屋之噺(210)

杉山洋一

ここ数日、酷暑に見舞われています。ミラノだけではなく、ヨーロッパ全土が異常な熱波に襲われているとか。毎年七月半ばが一年で一番暑いのですが、今年はそれが早まったようです。七月に向けてこのまま気温上昇が続くと想像したくないのですが、一体どうなるのでしょう。

6月某日 ミラノ自宅
朝5時半起床。息子の弁当に入れるパスタを作ってから、6時半、朝食のパンを買いにゆく。朝食の準備をして7時半には家をでて、マントヴァから戻った家人と中央駅で落合って、8時過ぎの列車でキアヴァリのマルコ・バルレッタのピアノを見に出かけた。マルコは旧いピアノを修復して使えるようにしているのだが、弦が交差しない形の平行弦のピアノは、音域毎に音質が違うので、同時に何声部も弾いても、それぞれ音がきれいに分離するし、現在のような均質な音色を求めるピアノをモーツァルトが持っていたら、アルベルティバスは書かなかったと力説していた。音質や鍵盤、時に声部が不均等である美しさは、その昔メッツェーナ先生のレッスンを聴講しているときに覚えた。

6月某日 ミラノ自宅
通常、指揮セミナーは教師が熟知するレパートリーをやらせるものだが、生徒がお金を出し合ってアンサンブルやオーケストラを指揮する我々の場合、編成や演奏時間が優先される。教師は曲を余り知らないまま、良く言えば先入観なしに生徒の作りたい音楽の手助けをする。一応楽譜の勉強はしたが、生徒の方がよほど深く読み込んでいて、解釈で蘊蓄など垂れる必要はない。むしろ、深く読み込み過ぎて、泥濘に嵌りそうになると、少しだけ言葉をかける。

今回特にチリ人の血を引くグエッラが担当したファリャ「チェンバロ協奏曲」の素晴らしさに衝撃を受けた。演奏も指揮も意外に難しく、編成が小さいほど、粗が露わになるからだろう。無駄なく冗長な要素を極端に廃した構造は、性格は違うがマリピエロのようでもある。
3楽章の楽譜を読んでいるとき、息子がシューベルトの即興曲2番を歌いながら通りかかって、初めてこの中間部がファンダンゴと気づく。常識と言われればそれまでだが、無知とは恐ろしいものでこの歳まで知らなかった。アルゼンチン人のバレンボイムの演奏を聴くと、カスタネットを叩いて躍っているように聴こえる。

浦部くんにお願いしたウォルター・ピストンが、ジェノヴァ人の家系だとは知らなかった。イタリアには、確かにピストーネという名字もあるそうだ。ピストンの「喜遊曲」に、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」の足跡を見る。ピストンの「喜遊曲」は1946年、バルトークの「協奏曲」は1943年。後年はボストンシンフォニーとミンシュでピストンの6番交響曲が録音されているほど、ピストンは長い間ボストンで盛んに活動していたようだし、クーセヴィツキとボストンシンフォニーの1944年の初演も聴いていたかもしれない。高校生の頃中古レコード屋で見つけたこのミンシュのLPを愛聴していた。
要するに指揮セミナーというのは、無知の教師が自らの無知を確認する、格好の機会ということ。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院に細川さんがいらして、ガルデッラも交えて昼食をご一緒する。美食家のガルデッラが探してくるレストランは外れたためしがない。食事の席でエヴァ・クライニッツの訃報に接し、言葉を失う。
夜は尺八の黒田くんとmdi ensembleの演奏会があって、桑原ゆうさん、浦部くんの作品を聴きにSirinに出かける。浦部くんは新作の初演をし、通訳も指揮もして企画までこなし、八面六臂。桑原さんの作品も次々とアイデアが沸き上がる様が素晴らしい。スタイルは違うけれど、知り合ったばかりの頃のみさとちゃんを思い出した。
もう20年近く前から何回か、パリのみさとちゃんもこのSirinにやってきては、mdiとのリハーサルに熱心に付き合ってくれた。当時は主人のフランコも健在で、お昼はいつもヴェラ通りの年配女性が揚げるカツを乾燥トマトやチーズと一緒にパンに挟んでもらって食べた。皆あのおばちゃんを慕っていて、ミラノ語でシューラ(おばちゃん)と呼んでいたが、あの店も大分前になくなった。
当時、いつもヴェーラ通りの角には、整った顔立ちに濃いめの化粧を引いた妙齢が立っていた。 晴でも雨でも、暑夏でも厳冬でも、物憂げで、どこか凛とした風情で立っていたのを思い出す。彼女の前に車が停まり、二言三言言葉を交わして助手席に乗込むところに、何度も出くわした。未だ若かりし頃のアンサンブルの演奏者たちのちょっとしたマドンナだったから、朝、練習が始まるとき、彼らが「今朝はシニョリーナもう道に立っていたね」、などと嬉しそうに声を上げていたのが懐かしい。彼女の姿ももう長い間みていない。
フランコが亡くなり、一人残されたミラを皆でいつも気にかけていたが、会うたび、この家は広すぎるしフランコとの思い出があり過ぎて辛いと涙をこぼした。友人らがお金を積んでこの家を借りるとか、購入するとか色々と案を出したが、結局彼女はさっぱりと売却を決め、年内には家を明け渡すことになっている。家人も、ピアノが好きだったフランコの楽譜をずいぶん沢山貰って来た。
黒田くんの演奏会に出かけ、フルートのソニアと話した。「シューラ、未だ元気かな」「どこかの養老院で、今も楽しくやっているといいわね」。

6月某日 ミラノにて
朝、東京の尚さんから便りが届いた。
「悠治さんのピアノは、涙が出そうになるような愛に溢れた音、音楽でした。張詰めた空気感、優しいロマンティックな雰囲気、静かなたたずまいなど、色彩豊かな時間で胸がいっぱいになりました」。

家人の留守中、息子の弁当の助っ人に母を来てもらっている。残念ながらうだる暑さで日中どこにも出かけられない。今朝は週末で弁当の必要がなかったので、朝早く、連立ってジョルジアの菓子屋まで朝食を買いに出かけた。こちらは徒歩で、八十路半ばの母は鶯色のブロンプトン自転車に跨り、颯爽と。
息子が魚を余り食べないとこぼすと、母も幼少期、魚にあたってばかりいたので、口にするのは好きではなかったと言う。当時は氷冷蔵庫しかなくて、暗いところで冷蔵庫を開けると、魚がぼうっと光っていて薄気味悪かったそうだ。母曰く、魚のリンが発光したからと言うが、真偽のほどは分からない。

(6月29日ミラノにて)