人類学者・木村大治さんから聞いた、バカ・ピグミーの暮らしについて。バカの村ではよく、独り言が聞こえるという。それも、隣近所はおろか村全体に響き渡る大声で。ある日、木村さんが風邪で寝込んでいると表から「日本人が寝ている!寝てるよ!」というような独り言が、壁の向こうから大音声で届いたという。「ボンガンド」と呼ばれるその「独り言」は、ほとんどが愚痴とかうわさのような取るに足らない内容で、ときにトーキング・ドラムで行われ近隣の村まで届くというから、迷惑というか、うるさいことこの上ないと思う。村人たちは時々届く独り言を聞き流しているのか、実は聞いているのか、とくに気にしない風だという(ちなみにトーキング・ドラムの場合は時々、葬式や大事な集会の情報を伝えることもあり、そのときは村人全員が立ち止まって注意を払うらしい※)。
木村さんのお話を聞いて少し経ったころ、ふとラジオからバカの音楽が流れ、はっとして耳を澄ませた。それは水面をリズミカルに叩いて演奏するウォーター・ドラムの音源で、バカたちが川で洗濯しているところを環境音と一緒に録音したものだった。次いでバカの歌が流れ、密林の小鳥、虫たちの声が彼/彼女たちの声がシンクロしているような、していないような、ヒトとその他の生きもの、物質との奇妙な混淆がそこにあった。
あなたとわたしの境界はどこにあるのだろうか──「わたし」は必ずしも一人の個人におさまらず、他人やムラ、その外側に広がるヒトならぬ存在に浸透しており、その果てははっきりと峻別できず、ただやわらかいグラデーションだけがあるのではないか。身体のことをやらなくては、そう思うときいつもバカたちのことを考えるのは、ままならない自分の身体や家族、他者たちとの関わりについて、そこに何か別のとらえ方が示されているかもしれない、そう感じるからだ。
いまこの原稿を、友だちを訪ねてどういうわけか流れ着いた、ドイツ・オーストリア国境の保養地で書いている。山間に点々とする湖はどれも美しく、こちらの人々は老若男女みな裸になって、夏の陽に温んだ水に半身を沈めたり、沖あいまで泳いでゆく。わたしもそれに倣って裸で泳ぎはじめる、が、それは〈わたしの〉裸ではなくヨーロッパ文明に帰属する、一個人の裸体にすぎない。だからわたしは、裸ではない。バカ・ピグミーから、竹林からも遠く離れて──手許にジャンベかスティール・ドラムがあればいいのに、と思う。だれかに聞かせるためでなく、ただ盛大な独りごとのために。
※木村大治「どのように〈共に在る〉のか……双対図式から見た「共在感覚」,『談』(81), たばこ総合研究センター, 2009。