八歳の時、団地の長い暗い回廊が私の舞台になっていた。雨が降るたびに屋根から壁に流れる黒い液体やカビの匂いは、引っ越したばかりの時から気持ち悪かった。それは草のようなものが生える感触だった。あの団地では生きているものはカビしかなかった。暗かったからあの回廊を通ると目が刺される気がした。そこで私は、ある日突然バレエの練習をはじめた。バレエといっても、裸電気の下の無茶な踊りに過ぎないが、私にとってそれは団地で暮らした日々の中で一番気が晴れる時間だった。
社会主義が解体して、テレビが自由(本当の意味での自由かどうかまだ分からないが)になった。海外の番組もはじめてみた。しかし、テレビと言えば、私の覚えている最初のイメージは、やはりチャウシェスクが殺された映像だった。あのシーンは全国民がテレビで見たはずだ。世界もそれを見ただろうが、私たちはまだ外の世界からとても遠いところにいた。
毎年クリスマスごろになると、いまだにチャウシェスク夫婦の裁判と射殺シーンが流される。そのたびに、一連の動きが映画のように細かくカットされる感覚に変わる。何回も見ているうちに、次第に映画のように見えるようになるのだ。チャウシェスクの声とエレナ夫人の言葉は全部覚えてしまうし、仕草やまなざし、拳銃の音やリズムなどが、すべて自分の身体に染み付いていく。彼らは最後の最後まで、何十年にもわたるパフォーマンスを止めなかったのだ。
日本で突然出遭った人と世間話をした時、私がルーマニア出身と知ったら「貴方の国も最高のパフォーマンスを世界に見せたね」と言われた。そのシーンのことだとすぐ分かった。世界は見たかっただろう、こういうものを。遠い昔、ここはデュオニュソスの地だった。世界にパフォーマンスを見せないわけにはいかない。でも、その後すぐに観客は立ち去り、ステージは空っぽになった。流された血がリアル過ぎだった、と感想を漏らした。チャウシェスクを打倒したあの革命の時、若者らは自分の命が奪われても、ステージに立って、己の役を演じ切った。
社会学者のゴフマンが言ったとおり、日常はパフォーマンスであり、世界は大きな結婚式だ――この場合は葬式か。私は、たまたまそのような場所に生まれた子供だった。
はじめて、テレビでバレエを観た時のことを覚えている。こういう類のパフォーマンスの日常を生きていた時、フランスのアルテというチャンネルがケーブルで繋がった。白い、軽いバレリーナの身体は、私に特別な印象を与えた。こんな軽い身体をもっている人がいるなんて。踊りの演目はぜんぜん分からなかったが、バレリーナの身体だけ興味深かった。それはとびぬけて白く、自由な人たちはこんなに軽い身体をもつのかと思い始めた。
バレエをテレビで見たあと、団地の回廊で真似し始めた。父の母は昔、布を作る工場でずっと働いていたから、家にはきれいな白い布の端切れがいっぱいあった。だれも使わないキラキラした布。私は自分の身体に巻いて衣装を作る。バレリーナというより古代ローマの貴族の奴隷みたいになったけど、その衣装でずっと何時間も暗い回廊で踊っていた。暗がりのなか、私の巻いた白い布が光っていたと勝手に思った。そして、新しい夢が見えた。そうだ、私はバレリーナになるのだ。だが、現実はいくら白い布を巻いても、私の身体が暗みの中に浮かぶだけだった。
その年のうちにその夢は完全に潰された。いま考えてみれば、環境が違いすぎたのだ。社会的な格差もあったが、私の身体はもっと深いところで何か非常に重い物に引っ張られたようだった。街中の団地に引っ越しても、家族そろって他所から引っ越して来た、ただの田舎者だった。悪い意味ではなく、ただ、町の暮らしに身体が慣れるまで何年もかかるのだから仕方ないのだ。団地特有の狭くて薄暗い空間に自分の身体が絞られるような感覚、息が出来ない感覚が毎日のように感じられた。
団地があったのは社会主義の名残を残した小さな工場だらけの町なので、大学に上がるまでオペラやバレエの上演がある劇場や映画館に出かけたことが全然なかった。今にしてみれば、あれは宗教とアート、尊厳を奪ったら、その人間に何が残るのかという、一種の社会実験だったのかとさえ思う。
母と父は経済的な余裕がなかった。二人とも生きるのに必死だった。母は朝から肉と牛乳の行列に並び、父は工場の仕事にすべてのエネルギーを使い果たすような毎日だった。ある意味、私たちは日常生活そのものをパフォーマンスとして生きていた。父は毎晩遅く工場から帰ってきて、顔は真っ赤でアルーコルの匂いがした。そしていつも何か叫んでいた。私と同じく彼にも潰された夢がたくさんあったのだ。
家族では毎晩、壮大な劇が演じられた。物が割られ、服が破られ、壁に酒瓶が投げ付けられる。それが朝まで続く。
父が働いていた工場は、街で最大のものの一つだった。一回その仕事場を見に行った時、チャップリンの『モダン・タイムス』を想起させる不気味な雰囲気があって、正直とても怖かった。人間が機械を支配しているのか、それとも機械が人間を支配しているのかわからない。それはとても微妙な関係が生まれているような空間で、身体に染み込んでくる。オーウェルの『1984』の雰囲気がよく当てはまる。
私が言いたいのは、そのような工場が本当に存在していたということだ。そして、そこで働かされていたのは、私の父みたいな肉体を持っている生の人間だったのだ。工場は子供の目線から見ると、人間と機械が混ざった、豚の内臓のような無茶苦茶な空間に映った。解体した豚を一度みるといい。内臓と血の塊の中からまだ温かい、死んだばかりの生き物の湯気が立ち上る。
私にとって、工場の機械も生物の器官として理解できたが、やはり豚が生き物なのに対して、あの中の鉄塊が恐ろしいものの内臓としか見えなかった。父は仕事服を着て、自慢の顔でその化け物のような機械を紹介する。父はプロパガンダ映画に出ている若手エンジニアの像そのものだ。工員の顔を観るのはとても好きだった。そこで働いていた人たちは父と同じ、田舎出身だった。辛かっただろう。川と森の代わりに機械を見守る毎日。社会主義国家に生まれ、完全に計画経済の子だったため、工場は彼らの身体を支配し続けた。父は良く頑張ったと思う。私はそのようにはなりたくなかったから、私の身体があらゆるものにたいして抵抗しつづけた。言葉を完全に失うまで。
毎晩、父が暴れるたびに、私の身体は動かなくなった。ひとたび傷つけられると、身体がまったく反応しなくなる。金縛りのような状態が何時間も続いた。マグリットの絵に出てくる空に浮かぶ大きな石のように。不思議に意識があるけれど身体が動かせない。つらかったというより、今にしてみればある類の踊りにしかすぎなかった。傷つけられた身体で懸命に自然を探そうとしていた。
(「図書」2016年11月号)