朝、自分の部屋で目が覚めると、いつもわたしはちょっと幸せな気持ちになる。寝ている時よりも目が覚めた瞬間が幸せなような気がする。カーテンの間から太陽の光が差し込んで、ママが下のキッチンで朝ごはんを作っている音がして、ときどきパパが廊下を歩いている音がする。そんな目覚めの時間に、どんなに自分がえらそうなことを考えていても、ああ扶養家族なんだ、守られているんだ、と思う。
まだ小学校の低学年の頃に、パパと一緒に駅前の商店街に出かけた。その時、前から歩いてきたちょっと怖いおじさんと、大学生風の大人しそうなお兄さんの肩がぶつかって騒ぎになった。パパが、間に入って収めようとしたのだけれど、怖いおじさんはお兄さんよりもパパに怒って、弱いくせにしゃしゃりでるな、と声を上げた。パパはなぜか笑顔になって、すみませんすみませんと謝って、まあまあまあまあ、とあとずさりしながら、私に向こうへ行け向こうへ行けと手をひらひらさせて合図を送ってきた。わたしはそんな合図を送られても怖くてその場から動けずにいた。
結局、怖いおじさんは、その後、パパに二言三言何か大きな声で言って、パパはへらへらと笑ってその騒ぎは収まった。最初に絡まれた大学生風のお兄さんは、怖いおじさんが行ってしまってから、チェッと舌打ちをして私たちのほうも見ずに駅のほうへ歩いていった。パパはしばらく怖いおじさんの背中を眺めたあとで、小走りでわたしのところに戻ってきて、手を引いてマクドナルドへ入って、玩具がおまけでついているハッピーセットを買ってくれた。
あの時に、わたしは初めてパパよりも強い人が世の中にはいくらでもいるんだということを知って、なるべくあの日のパパを思い出さないようにしていた。あの日のパパを思い出すと、いつ怖い人たちが家にやってきて、家の中の物を勝手に持っていったり、わたしやママに乱暴をするかもしれない、という変な想像をしてしまうからだった。
高校生になったくらいから、わたしはもう一度パパはやっぱりえらいなあと思うようになった。世の中にはパパよりも強い人や怖い人や才能があって歌がうまい人やイケメンで映画に出られる人や絵を描けるような人がたくさんいるのに毎日会社に行ってわたしたちの暮らしをちゃんと守ってくれていると思うようになった。それはたぶん、高校二年生になってから担任の先生に将来のことをちゃんと考えるようにと言われるようになったからだと思う。
担任のテラカド先生曰く、別にみんなを焦らせるように将来のことを考えろと言うのは本意ではないけれど学校がそのように進路指導をしろと言うので仕方なく言っているんだということだった。それを聞いた時に、わたしはテラカド先生のことをちょっとずるいぞとは思ったけれど、まあ実際に将来のことを考えないといけない年頃になっているのは本当のことなので素直にうなずいたのだった。
朝になって目が覚めて、幸せな時間を過ごして、だいたいママと二人で朝食を食べて、時には働き方改革のための時間調整で遅番の日はパパも一緒に三人で朝食を食べて、わたしの幸せな時間は終わる。
わたしの暮らしている街は郊外なので、市街地にある高校まで五駅だけれど私鉄電車に乗らなければならない。この電車がとても混んでいる。わたしは正直、通勤のおじさんやおばさんにギュウギュウ詰めにされるのは全然気にならない。それよりも、同じ学校に通う男の子や女の子と一緒に詰め込まれるとどうしていいのかわからなくなる。普通に会話ができる子もいるけれど、そんな子はほんの少しで、同じ通学路の子はアキちゃん一人だけだ。だけどアキちゃんは少し時間にルーズなので、いつもギリギリの時間に家を飛び出して電車に乗って、駅から学校まで猛ダッシュで通学している。わたしは朝から汗まみれになるのが嫌なので余裕をもって家を出るから、朝、アキちゃんと一緒になることはほとんどない。そうなると、顔はなんとなく知っているけれど話したことがないという男の子や、みんながビッチだと噂しているけれど真相は知らないという女の子と腕や肩や背中をピッタリくっつけあって電車に詰め込まれることになる。たった十五分ほどの時間だけれど、これほど苦痛な時間はない。
玄関でスニーカーを履き、ショルダーバッグを肩に掛けると、わたしはイヤホンを耳につける。iPhoneを操作してクリープハイプを流し、心の中でよっしゃと自分にハッパをかけて街へ出る。クリープハイプがいてくれたら最強。電車のなかにどこの誰と一緒に詰め込まれようとなんとか生きていける。
案の定、今日も電車のなかは同じ制服のオンパレード。右も左も前も後ろも、顔は知っているけれど名前まで知らない人でいっぱいだった。何組か朝ちゃんと時間を合わせて登校する仲良しグループがあって、その子たちはずっと話をしながらギュウギュウ詰めに耐えているのだけれど、それ以外の私のような人たちはみんなイヤホンをして好きな曲を聴きながら耐えている。一駅過ぎ二駅が過ぎた頃、急に私のイヤホンが引っ張られた。目をつむりながら引っ張られたイヤホンを首を揺らして取り戻す。するとまたイヤホンが引っ張られて、そっちを見るとアキちゃんがいた。アキちゃんは私の耳元でわざとくすぐったい声で、おはようと言い、その声がクリープハイプの演奏の合間にうまいぐあいにはまってわたしは耳がこそばくなって吹き出してしまう。するとアキちゃんはまたわたしの耳元で、シーッと言いながらわたしたちの目の前をあごで示すのだった。すると、わたしたちと同じ制服を着た女子の手を握る男子の手が見えた。でも、満員電車なので誰が誰の手を握っているのかがわからない。その手はただ女の子の手を男の子が握っているのではなく、女の子の指の間に男の子の指がややこしく組み合わせられていて握っているというよりも握りあっているという感じになっていて、これはもう一言で言うとエロかった。わたしが小さな声で誰と聞くとアキちゃんは、セイシロウだよ、とわたしたちの同級生の名前を答えた。(続く)