音の旅

璃葉

この冬、実家の空気を久しぶりに、たっぷり味わっている。

ひびの入った壁や黄ばんだ天井を見渡しながら、年季の入った家になってきたなあと、しみじみ思う。

朝の居間にはひんやりと冷たい空気が漂っていて、静かで青みがかった色。前の日のタバコの匂いが少しだけ残っているので、空気の入れ替えをする。日が高くなるにつれて部屋も明るくなっていき、光が差し込んでくる時間帯に、庭の椿、月桂樹、柚子の木にメジロや椋鳥が遊びにくる。そんな風景の見える窓際で、家族の誰かが珈琲を飲んでいる。

床や壁が汚くても、少々地盤がゆるくて家自体が傾いていても、家の素材である木材や石やタイルはこの数十年、季節の空気や目に見えない何かを吸収して、ちゃんと歳をとって生きてくれている。

父曰く、むかし、このへん一帯は川だったらしい。家とその目の前に広がる森が深い窪地になっているということは、ここは川底だったのだ。川底だったところにいま、木が生え家が並んでいるなんて、ちょっとおもしろい。庭の椿を眺めながら、なるべく綺麗な水が流れている川底に沈んでいるのを想像してみたが、なんだか寒気がしたのでやめた。

この先、この場所はどう変わっていくのだろう。時代の移り変わりの早さを考えれば、風景や情景なんて、一瞬で姿を変えてしまうものだ。川底から森になるぐらいなら一向に構わないけれど。

実家滞在の間、父の本棚やCDを物色している。嬉しいことに、ここには民族音楽の音源が山ほどある。すべての作業がひと段落した夜、ストーブの温まった部屋で赤ワインをちびちび舐めながらCDを漁っては、父と姉と、音の旅をする。

大陸を行き来し、東欧、北欧の音楽を聞いたかと思えば、次の日は南米、アジア、アフリカと、見境なく聴いている。聞いたことのないリズム、そのへんで拾ったであろう木や石をそのまま叩く楽器の原型のようなものが出てきてわくわくするときもあるし、明らかに植民地支配の影が見え隠れするような、西洋混じりの退屈な曲もある。音楽から、国や民族が辿ってきた歴史や文化の端くれを眺めているようだ。

師走最後の日、休憩がてら窓ガラスを拭いて(たばこのヤニがすごい)、柱やライトについた蜘蛛の巣や埃を払い、しめ縄を各部屋に飾る。一番上の兄も静岡からやってきて、力仕事を手伝ってくれた。

そんなことをやっているうちに薄明が過ぎて、上弦の月が梢の向こうに見えている。

さっきまで夕陽が差していた川底の森は真っ暗だ。年越し蕎麦の準備をしつつ、そろそろ黒豆を煮始めようか。

さっきまで夕陽が差していた川底の森は真っ暗だ。年越し蕎麦の準備をしつつ、そろそろ黒豆を煮始めようか。

そして一息ついたら、ふたたび音曲行脚を始めよう。