アキハバラ少年(晩年通信 その13)

室謙二

 少年は秋葉原が大好きだった。
 ラジオ少年、模型少年だったのである。
 家が「国電」飯田橋駅の近くだったので、三つ目の秋葉原にたびたび出かけていった。行き始めたのは小学校の高学年ぐらいだろうから一九五〇年代後半で(昭和三十年代のはじめ)で、いまのように電化製品を売る高いビルは建っていない。
 三種の神器と言われた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が売れ始めたころで、東京通信工業(後のソニー)が、トランジスタラジオを発売したのが、昭和三十年(一九五五年)であった。もっとも私は、そういう家電を見に秋葉原に行ったわけではなかった。

秋葉原は学校であった

 秋葉原のガード下に、小さな店がごちゃごちゃと集まっている。人がやっと通り過ぎることができる通りがそこに三本あって、その左右に、人が一人で店番をする部品屋がならんでいる。そこを歩きながら、部品を見たり手にとったりする。いろんな種類のコンデンサーと抵抗が、小さな仕切りにびっしり入っている店がある。大小のトランスが置かれていたり、電線だけを売っている店もある。シャシーだけを売っている店もあって、図面を持っていけばシャシー加工してくれる。フルレインジとか、高域専門、低域専門のスピーカーを売っている店もあった。
 お金をためて部品を買って、ラジオ雑誌の説明どおりに作った。再生検波の低周波一段増幅のラジオ(並四ラジオ)とか、これは発信ギリギリまで感度を上げて聞くので、ちょっとダイアルをずらすとピーピーという。そのあと、検波の前に増幅する高周波一段を、小さなシャーシーに部品を取り付け、回路図を見ながら配線をした。これで感度が高くなる。
 秋葉原は学校であった。歩き回ったり、立ち止まったりして学ぶのである。もっとも店の前をずっと占領したり、売っている部品にいろいろと触ると怒られる。たびたびくる大人は、店番をしている人間とながなが話している。みんな男だったね。女性の世界ではなかった。ガールフレンドを連れて行くと、退屈して、何が面白いのかと不思議がられた。買うわけではなく部品を見ながら歩き回るのだが、くるたびに置かれている部品が変わっていることもない。だけど何か発見がある。あれ、こんなものがあったのか。

ガード下の闇市

 ガード下の小さな店は今でもある。だけどあの当時とは違う。店の数は減っているし、あの頃はもっと雑多であり、いまはキレイキレイである。戦後の秋葉原は闇市であった。それを教えてくれたのは、本多商会の本多(弘男)さんだった。秋葉原の歴史を読めば、そんなことは書いてある。だけど本多さんは具体的に、ムロさん、あの大きなビルの店なんか、日本軍のとか占領軍(米軍)からの横流し品を闇市で売って大きくなったのだよ、つまり違法の取引だったのだね。
 闇市というのは、物価を統制する体制のときに、それに従わないで「非合法」に設けられた市場(マーケット)である。
 食べ物で言えば、敗戦直後の日本では、政府の配給制度によって食料品が配られるはずであった。しかし食料が極度に不足していたため配給は遅れて、都会の人々にはなかなか手に入らない。しかし配給以外で食料を手に入れるのは違法行為である。だがその違法行為をしないかぎり、人々は生きていけない。餓死者が出る。
 法律を守り配給のみで生活をした(多分抗議活動だが)ある裁判官は、餓死した。それで都会の人々は、戦前から持つ価値のあるものを売って、闇市で食べ物を買ったり、汽車に乗り農村に買い出しに行った。もちろんそれらは非合法である。だが合法では生きていけないのだ。
 そうやって私の両親は戦前からもっていた中産階級の宝石類とか着物を持って農村に出かけて、食べ物をと物々交換をしたのである。ところが農村に出かけて手に入れた食料品は食料管理制度違反なので、電車のなかで係官に没収されたりする。母親はそうことについて怒りをこめて、なんども話してくれた。
 生活必需品も圧倒的に不足で、日本軍とか米軍からの放出品、横流し品が闇市に出回る。その闇市が戦後秋葉原の出発だった。本多さんは、秋葉原をいっしょに歩きながら、ほらムロさん、あの大きなビルなんか非合法の闇市で大儲けをした口だよ、と笑いながら話してくれた。

アメリカと通信しているのだから静かにしてくれ

 本多さんはラジオデパートの地下に「本多通商」という店をやっていて、「マイコン」関連のものを売っていた。The SourceとかCompuServeというアメリカのパソコン通信サービスの代理店にもなっていた。私はそこでThe Sourceのアカウントを手に入れて、電話線経由の音響カプラー(これも本多商会で買った)でアメリカのパソコン通信にアクセスしていた。
 そのころ一緒に仕事を始めたMITメディアラボのニコラス・ネグロポンティに言ったら、それではとMITのアカウントをくれた。それで日本から電話線経由の音響カプラーでメディアラボにアクセスする。息子の大輔がまだ三歳とか四歳で、階段を音を立てて二階に登ってくる。「大輔、お父さんはアメリカと通信しているんだよ。静かにしてくれ」と言う。音響カプラーは、ピーヒョロヒョロと実際の音を普通の電話機に送り込んで通信するから、うるさいと外の雑音も拾ってエラーを出すのだ。
 もっともすぐあとに、電話線に直接につなぐモデムを、アメリカに行ったときに買った。あのときは電話線につなぐモデムは、電電公社の許可が必要だったのではないかな。私は無許可で使ったが。
 ネグロポンティとか、同じくMITのシーモア・パパート(人工知能と子供コンピュータ教育の専門家)をつれて本多商会にも行った。本多さんは、私たち三人に秋葉原のいろんなところを見せてくれた。あれは何だったか、どこかの屋上で人工衛星と交信するデモも見せてくれた。それでネグロポンティもパパートさんも、ケンジは秋葉原のいろんな人を知っている「専門家」であると誤解して、本多さんは、ムロさんはMITの偉い人たちと付き合いのある「偉い人」だと誤解した。

がっかりするなあ

 当時は、マイコンが始まったばかりの時代だった。
 それから日本は、高度成長の時代に入る。秋葉原も変わる。ガード下の店はあるものの、家電を売るビルが建ち、前に書いたけど三種の神器の時代である。中心はガード下から、高いビルに移ったのである。闇市から始まった秋葉原は、こうやって時代時代にその電気製品とともに変わっていく。こんな電気街は、世界に類を見ない。バンコックに、小さな規模の電気街があったが。
 アメリカに住むようになって、秋葉原を探したけど、バークレーには秋葉原的な電気部品を売っている店があったが潰れてしまった。みんなオンラインで部品を買うようになったから。それとFly’s があってクルマで四〇分でいける。これは家電から電子部品まで売る大きな店で、アメリカのアキハバラである。シリコンバレーにあって、コンピュータ関連で働く人間がよく来ていた。でも日本に帰ると、まずは神田の本屋街と秋葉原に行く。本屋街から秋葉原までは歩いていき、途中で「藪」とか「まつや」でそばを食べる。
 Fly’sと秋葉原はぜんぜん違う。かたや資本主義パソコン企業の店であり、かたや「戦後歴史的ニッポン文化」である。パパートさんとかネグロポンティを連れていくと、アメリカにはないこの街に感激していた。
 でもあの秋葉原は、どんどんなくなっていく。
 がっかりするなあ。
 本多さんも、亡くなってしまったし。