「潜勢力」と前回書いた。この潜勢力に様々な方向からアプローチする手がかりをこれから読む『水牛新聞』第3号は教えてくれる。しかもそのアプローチとは、歴史上に点在する出来事を別個に知るためのものではなく、出来事と出来事とを線で結ぶアプローチ、つまり歴史の海原に点在する島々を結ぶ潮の巡りや珊瑚礁の連なりを想像させてくれるアプローチである。少し飛躍するが、水牛の活動とはこのような想像の地図、海流や風向きや地下水脈が幾重にも書きこまれた地図を作ることなのだと思う。おそらくこの想像上の地図について、私はずっと後の方で(『水牛通信』1981年10月号を扱う時に)より具体的に述べることになるだろう。私の目的は、その想像の地図を見渡し、「いまの地図にむかしの地図を重ねてみる」ことである[1]。
今回読む『水牛新聞』第3号が刊行された1979年2月1日という日付はどのような歴史的文脈をもっているのか。ひとことでいうならば、それはグローバリゼーションの前段階といえる歴史的文脈である。まず政治経済についていえば、前回述べたように、日本経済が安定成長期に安住する一方で、1月に起こったイラン革命によって第二次オイルショックが起こる。1973年の第一次オイルショックに引き続き、世界情勢を睨みつつエネルギー政策を展開することが日本の課題となる。それと並行するような形で、国際的な文脈に目を向けると、この時期は、サッチャー・レーガン体制が登場する前夜にあたる時期でもある。新自由主義的な経済・国家のあり方へと欧米の先進国が舵をきる直前、といえようか。また、別の文脈に目を向けると、2月にはジュネーヴで世界気候会議(WCC)が開催され(12日-23日)、気候変動が論じられ、人間の資本主義的活動が惑星レベルで持続可能かどうか議論され始めている。惑星に対する人間の暴力的な活動の帰結は、この世界気候会議のひと月後、スリーマイル島原発事故という形で具体化する(3月28日)。直接的なつながりを持たない一連の出来事を羅列したのは、『水牛新聞』第3号が刊行された文脈を知るためでもあるが、同時に、現在の問題との連続性を際立たせたかったからでもある。ちなみに、スリーマイル島原発事故にかんしていえば、後に水牛楽団は土本典昭監督の『原発切抜帖』(1982年)の音楽を担当することになるだろう。何はともあれ、『水牛新聞』第3号の周囲で「グローバルな問題」の布置を構成する出来事が立て続けに起こっていた、ということが確認できれば十分である。
以下、まず「水牛は何をめざすか——1979年運動方針」と題された短い文章を読む。「運動方針」という硬質な言葉遣いがしなやかな身ぶりへとほどかれていく様子を確認することで、血や肉や皮膚をもつやわらかな「運動」の姿形がみえてくるだろう。次いで、「反CTS闘争の村で50年前の祭がよみがえる」と題された第一面の記事をやや詳しく検討し、「運動」の身ぶりの今日的な潜勢力を探る。そして最後に、少し変わった選択だとは思うが、「喜納昌吉と白龍」と題された非常に短い文章に目を向けてみたい。
「水牛は何をめざすか——1979年度運動方針」
「『水牛』は文化を民衆の運動のなかにひきもどすことを目指す。日本でのさまざまな運動は分断されている。大衆の自己解放のたたかいと解放文化運動が直接むすびつく条件はととのっていない。」——これが「1979年度運動方針」の書き出しである。黒々とした漢字が並ぶ、いささか肩に力の入った書き出しではある。それはこう続く。
大衆は管理され、消費文化にとりつかれ、自分で自分の生きかたをきめることには関心をもたないようにさせられる。このことに気づく少数の人たちは、いらだちと無力を感じている。(…)
外側の世界の労働と苦行が島の安楽をささえている。世界の根に根ざせば、そこから養分をすくいあげてさきほこる花も理解できる。分断された状況、無関心と無力感も、根とかよいあう道をたたれ、実をむすぶこともなく、むなしくくされおちる花のくるしみをあらわしている。
硬質な言葉の向こうにほのかに詩が透けて見える。「世界の根」を幻視するこのような言葉こそ、新たに温めなおすべき言葉ではないか。もっとも、あくまで「運動方針」としてこの文章を読むならば、遅れてやってきた左派的宣言文として読むことのほうが自然な読み方ではあるだろう。なぜ1979年にもなって、「運動」などというすでに事後のものとなった言葉を用いているのか、といった批判的な距離感を保ちつつこの「活動方針」を読もうとする、冷笑的な読み方がそれである。だが私としては、そのような読みは採用したくない。というのも、冷笑的な読みは、「大衆の自己解放のたたかいと解放文化運動が直接むすびつく条件」が、大きな困難を抱えつつも、日本の周縁で、あるいは市場経済の埒外で息づいていた、という事実を見逃しているからである。この点については反CTS闘争について述べる際に触れる。
「活動方針」の中でとりわけ興味深いのは、このような「大衆運動と文化運動を結ぶ」ことへの希望が、水牛においては「文体」の発見として言語化されている点である。そして、この「文体」への言及を境に、それまで「運動組織の自己変革」などを語っていたテクストがほどけていく点が興味深い。どういうことか。「活動方針」の続きを読んでみよう。
これまでの反体制運動には、支配文化のうごきを一歩あとからおいかけ、分析・批判するだけのものが多かった。「水牛」は実践のためのモデルを提案する。「水牛」がとりあげる詩は活字で読みとるためではなく、大衆集会で大声で読みあげるため。歌の楽譜は集会で歌うため、劇の台本は活動家たちが上演するため。論文や報告は批判的学習の素材として。
「水牛」新聞をつくる作業は学習の場でもある。「水牛」はあたらしい文体をもとめる。(…)アジア民衆のわかちあうことばにより、アジア民衆のあたまでかんがえ、かれらの皮膚で呼吸する文体を発見することだ。
「観念や理論」ではなく、文化そのものがもつ「かたち」を実践すること。実際に運動の場に行き、言葉を口にし、歌い、演じ、学びとる、そういった身体の次元で文化の「かたち」を感受すること。この二つの要請が「水牛は何をめざすか」においては「文体の発見」と結びついているのである。二つの要請については、具体的には、創刊号における服部良次のインド演劇体験、あるいは第2号で扱われていたタイやフィリピンにおける演劇の報告からもその具体的な内容をイメージすることはできる。だが「文体」とは何か。もう少し先も読んでみよう。
この文体は「私」をしらない。すべてを「私」にひきうけるのではなく、ひとりのものもみんなにわかちあうことが、文体の上でも必要だ。内面の表出ではなく、りんかくのはっきりした身ぶりをつくりだすことば、白紙の上にかきおろされた新鮮さがそのまま引用のもつむだのなさであるようなリズムを発見することだ。
民衆や運動といった黒々とした漢字は息を潜め、代わりに余白のあるひらかなで書かれた「ひとり」や「りんかく」という文字のやわらかさが印象的である。しかしそのやわらかさをいざ言い換えようとすると途端に言葉は手からすり抜けてしまう。説明しよう、言い換えようとするたびに、それをする人は「すべてを『私』にひきうけ」てしまい、「みんな」から言葉を奪ってしまうことになる。逆にいえば、説明や解説ではなく、身ぶりそのものをごろりと提示すること、引用が織りなすモンタージュこそが水牛の文体ではないか。このような「文体」の発見についてより深く看取するために、『水牛新聞』創刊号の巻頭言「水牛、でてこい!」を引用しておこう。
洗練された身ぶりは、ひとつひとつのかたちから「かた」にちかづく。なぞられたかたちは、りんかくがしだいに影をこくし、単純な線の運動に収斂する。(…)目標にねらいをつけ、現実のなかでよけいなものをけずりおとしながら、具体性をうしなわないままの「かたちの原理」とでもいうべきものがあらわれる。そのとき、身ぶりは身体や声にきざみつけられ、しかも別な身体、別な声の上にのりうつる感染力をもつにいたる。(…)身ぶりのモンタージュのなかで、心づかいのつくりだすリズム、人々がいっしょにやってゆくための行動のスタイルが生まれるだろう。
「身ぶり」と「リズム」の分有に重点を置く水牛の文体論。それにあえて別のイメージを重ねてみるならば、水牛の文体とは、どこか祝祭的な文体ではないか。ここで少し飛躍するなら、この「『水牛』を読む」の最終回は、「可不可」という「オペラ」を扱うつもりなのだが、モンタージュが織りなすリズムをもった文体を発見しようとする「活動方針」には、何年か後にやってくるこの「可不可」が息を潜めていたのかもしれない。今の時点でそこまでいってしまうのは勇み足である。さて、祝祭、といったが、実は『水牛新聞』第3号の一面は、とある村で起こった祭の復興について報告していた。これから読むのは、その祭の記録である。
「反CTS闘争の村で50年前の祭がよみがえる」
その村は屋慶名(やけな)という。うるま市から勝連半島(与勝半島)に入り、その先端、金武湾にのぞむ地区が屋慶名である。これから読む報告は、この金武湾の地理を正確に描写することから始まる。
那覇市をでたバスは、まっすぐ北上、嘉手納基地、沖縄市をとおりすぎ、具志川で右折して、与勝半島にはいる。この間、ほぼ二時間。半島の突端部にちかく、金武湾にのぞんで、屋慶名(やけな)の村がある。正確にいえば、与那城村屋慶名区。70年代をつうじてたたかわれてきた反CTS(原油備蓄基地)闘争の拠点である。
『水牛新聞』第3号掲載時、この文章には執筆者名が書かれていなかった。だが、後に同じ文章が「よみがえる祭」と題されて津野海太郎の『小さなメディアの必要』に収録されることになる(晶文社、1981年3月25日発行)。したがって、おそらくこの報告は津野の筆によるものなのだろう。津野の本の刊行から数ヶ月後、同じく晶文社から安里清信(1913-1982年)の『海はひとの母である』が刊行されているが、著者である安里清信こそが金武湾反CTS闘争の世話人である。
報告はこの安里清信の母である安里ウサの97歳のお祝い、「カジマヤーの祝い」について語る。「白寿をむかえる老人が、風車を手に、ふたたび子どもの気持ちになって、二度目の人生のスタートをきる」このお祝いは、チクラマチという棒術によって開始するのだが、このチクラマチこそが50年を経て復活された祭なのである。「チクラ」とはボラの幼魚のこと。川面に満ち満ちるチクラを村人たちは捕まえ、それを干して食糧にするのだが、このチクラ漁の際の魚の動きを模倣したものが棒術チクラマチである。報告には次のようにある。「村人たちにとりかこまれたチクラは、はげしく渦をまいて、はねまわる。このチクラの渦巻をまねた集団棒術がチクラマチである。そこには、チクラの豊漁をねがう村人たちの気持ちがこめられていた。」
チクラマチは1928年以降、不況や戦争を理由に途絶えていたという。この途絶えていた祭を復活する契機となったのが反CTS闘争である。実は昨年、この反CTS闘争を論じた学術書が刊行されている。上原こずえ『共同の力——1970~80年代の金武湾闘争とその生存思想』(世織書房、2019年)である。著者は金武湾で起こった闘争について多くの論文を発表してもいる。残念ながら今は上記の書物が手に入る状況にない。そこで、公開されている上原の論文や他の資料に依拠して、どのような歴史的脈絡のもとでこの祭がよみがえったのか確認しておきたい。詳細な文脈については、上記の学術書が参照先となるはずである。
金武湾を埋め立て、原油基地を建設する計画は1972年の施政権返還前に提起されていたという。金武湾闘争の中心人物のひとりだった崎原盛秀によると、この金武湾開発は1967年頃からはじまり、その背景には「本土との格差是正」を目指した松岡政保琉球政府主席の判断による、外資導入政策があった[2]。金武湾開発はオイルショック後のエネルギー戦略の一端であり、それは石油備蓄基地の計画にとどまらず、原発建設計画まであったという。湾埋め立てがもたらす最も大きな問題をざっくり要約するならば、それはチクラ漁が象徴していた豊かな海産資源の破壊、人々が生きていく場である自然環境の破壊、資源と場を奪われたことによる共同体とその文化の破壊、この三つである。住民たちの生存を脅かすCTS建設問題をめぐって、反対運動が起こるのが1973年からである。運動形成過程について、少し長いが、上原の詳細な論文から引用する。
海の汚染が金武湾周辺市村の住民らに「危機」として感知されるなか、金武湾周辺各地の公民館などでは公害学習会が開催され、自主講座・公害原論から派生した「沖縄CTS問題を考える会」関係者との交流も始まっていた。そして1973年9月22日、与那城村屋慶名で150人の住民が集い、工業化に抵抗してきた既存の組織である「東洋石油基地反対同盟」や「宮城島土地を守る会」、「石川市民協議会」、そして新たな組織としての「宣野座の生活と環境を守る会」や「与勝の自然と生命を守る会」、「具志川市民協議会」を連ねるかたちで、「金武湾を守る会」が結成された[3]。
「金武湾を守る会」が登場したのはこのような文脈においてだった。ここで留意しておきたいのは、「守る会」はそれぞれが代表、というポリシーをもっていたということである。「会」ではあるけれども、その中には多様な人が集まっていたのである。たとえばメンバーの中には、ベラウと金武湾を結ぶ太平洋の島同士の平和運動を組織した者もいた(ベラウについては別の回で触れるつもりである)。「守る会」を中心とする反CTS闘争は決して一枚岩の活動ではなかったのである。
さて、「反CTS闘争の村で50年前の祭がよみがえる」では安里清信の言葉を紹介することで、この文脈がなぜチクラマチ復興を要請するのか明確にしている。以下は、報告者が引用している安里の言葉である。
「人間の生命には、生物としての生命ばかりではなく、文化的な命がふくまれる。だから、わたしたちの闘争は、国と三菱石油による、屋慶名の文化破壊にたいするたたかいでもあるのです。」
すでに途絶えて久しい祭の復興のために、「守る会」の人々は1928年の最後のチクラマチを経験した二人の老人を訪ねた。猛特訓の末によみがえった祭は次のような生命力溢れるものである
屋慶名大通りの両端に、120人の若衆が東西両軍にわかれ、白装束にあざやかな色どりのたすきがけ、棒を手にして、待機する。やがて、ホラの音がひびき、「ヒャーイ!」「エイ!」という威勢のよい掛声とともに棒術がくりひろげられ、打ちならされる太鼓の音にあわせて、旗持ちを先頭に、行進がはじまる。通りのまんなかで出会った両軍は、そこで渦をまき、また二手にわかれて、もとの位置にもどり、Uターンして、ふたたび出会い、渦をまき、棒をあわせる。
この祭の場には、CTS建設賛成派の住民も来ていたという。実はCTS建設は住民を賛成派と反対派に分断し、村に対立をもたらしていたのである。実際、CTS建設は雇用機会創出という形で住民の前に立ち現れていた。海中道路を建設し、海の環境を破壊し、それによって土地に根ざした産業のあり方を浸食しつつ、埋め立てや開発によってもっと豊かな暮らしができるようになる、と札束で頬を叩くような権力の介入が村を引き裂いたのである。だからこそ、チクラマチをよみがえらせる必要があったのだ。そのような札束に対して、金で対抗するのは馬鹿げている。そうではなく、誰にも奪う権利などない文化の力でもって対抗すること、それこそが途絶えていた祭の復興が意味するところなのである。「チクラマチ復興を中心とするカジマヤーの祝いの成功は、反対派と誘致派のどちらが、村の文化をつくりだす力をもっているかということを、はっきりと示した。」こう報告者は述べる。文化、それは私たちの権利なのである。より良く生きること、美しいものを求めること、心を満たすこと、歓喜すること、楽しむこと、誰かとともに満ち足りた時間を過ごすこと、それらはみな、私たちの権利なのである。チクラマチの復興が教えてくれるのはこれである。
話は飛躍するが、2009年に仏領カリブ海の島々で大規模なゼネストが起こった。燃油賃の引き揚げへの抵抗に起因するこのゼネストが訴えたことは、あらゆるものを旧宗主国から金で買い、消費することを強いられるポスト植民地的経済システムの見直しだった。その際にカリブ海の知識人が連名で「高度必需品宣言」という宣言を発している[4]。高度必需、それは詩的なものへの要求である。人は最低必需品だけで生きていくものではない。詩的なものがもたらす歓び、ユートピアへの希求こそがゼネストの中から立ち上がらなければならない。そうカリブ海で声があがったのである。『水牛新聞』第3号に書かれた次の言葉は、まさしくこの「高度必需品宣言」の精神と共鳴するものではないか。「民衆の生存権とは、ただ生きる権利のみを意味するのではない。それは、わたしたちがなにをたのしみ、なにをよろこびとして生きるか、という問題でもあるのだ。」
反CTS闘争の参加者は、今でも戦っている。たとえば辺野古。今月14日で土砂投入から丸2年だという。現在進行形で壊されていくものを思い描く時、しかしその残酷な想像を硬直した紋切り型に譲渡してしまうことは避けたい。そこで金武湾の具体的な豊かさ、生きた豊かさをイメージするために、2010年に発表された崎原盛秀へのインタービューから引用しよう。
まだ金武湾が破壊されないときの海は、豊かでしたね。それから20年余り、汚染も進みましたが、最近では海が再生してきて、4月になると人々が浜下りして、海の幸がいっぱいとれます。やんばるでも見られない光景ですね。とくにスヌイ、テングサ(このあたりではそう呼ぶ海藻で、こりこりして酒のつまみにも良いものです)があるところとか、知っている人は知っている。やんばるからもテングサとか、海豆腐といって海藻でところてんのようなとうふをつくるのですが、その材料になる海藻とか取りに来る。どこの海でも取れるというわけではない(…)海中道路の右側は砂地ですが、そこに水の流れができていて、水路みたいになっている。干潟になっても流れが速い。砂をかぶってテングサもあまり見えないけれども、掬ってみると、たくさん出てくるんです。行くたびにかごいっぱいとれますから、自家用で一年分まかなうだけでなく、近所に配ったりもします[5]。
ここには海中道路建設を経てもういちど再生した海の姿がある。また、味覚や嗅覚は食べる歓びだけでなく、そこからさらに進んで、食べ物を自らの手で採ること、そしてそれを近所の人々とわかち合うこととも結びついている。どれだけ壊されてもゆっくりと再生し豊かさを恵んでくれる海の姿を、そして、味覚や嗅覚を総動員しながら行なわれる計算不可能な、しかし生活にとって不可欠な微弱なエコノミーの姿を、浜下りのイメージは教えてくれるのである。
ただ、最後に付け加えなければならない。この浜下りの様子を語ってくれた崎原盛秀氏は、先月、11月4日に亡くなられた。それを知ったのは、本稿を用意している時だった。
「喜納昌吉と白龍——『誇りと笑いの祭り』」
本稿を締めくくるにあたって、最後に、すこしだけ変わった記事に目を向けてみたい。「喜納昌吉と白龍」と題された、あるコンサートの「宣伝」である。
「78年のぼくらにとって、喜納昌吉との強烈な出会い、つづく白龍との交流は、一つの転機をもたらした。口先だけの談笑で触れ合い、『いずれまた』という具合いのつきあいを、ぼくらはしなかった。播かれた種は、確実に育てたかった。」文章はこう始まる。「ぼくら」と書かれているが、この文章を書いたのは誰だろうか。そう思って署名を見ると、そこには「青生舎」とだけ書かれている。この三文字を見ただけで、多くの人には70年代のメルクマールともいえる内申書裁判、そしてその後の反管理教育運動が想起されるはずである。おそらくこの文章を書いたのは、「青生舎」を立ち上げて数年目の保坂展人、現世田谷区長である。「喜納昌吉&チャンプルーズバンド」オフィシャル・ウェブサイトの「喜納昌吉の軌跡」を参照すると、1977年12月の項目には次のように書かれている。
「元気印」という流行語を創った人物・保坂展人(現衆議院議員)との出会いも昌吉の大きな転機である。保坂氏は16年にも渡る「内申書裁判」中、琉球弧の住民運動に連帯しようと沖縄に訪れ「島小」を耳にする。強い衝動に駆られ保坂氏は、昌吉の家を訪ねた。二人は初対面であるにも関わらず、夜を徹して語り合い、その後1週間語り続けたという。互いに影響を与えあい刺激しあう仲となった二人は、新しい時代を築こうと日本全国をまわり、各地で自主コンサートを行った[6]。
1977年といえば、喜納昌吉29歳、保坂展人22歳、白龍は25歳である。「78年のぼくら」というのは、この年表にある1977年12月以降のことをいっているわけだが、それでも最年長の喜納昌吉が30歳である。では喜納昌吉や白龍の歌に、23歳の青年は何を聴き取ったのか? 文章はこう続く。「かれらの歌は、陽気で明るい。文句なしに楽しめ、踊りが客席からとびだすのもゆかいだ。告発でも糾弾でもない。恨みでもない。そこを経過しながら、ついに吹き出してきた太い誇りの歌であり、笑いのある文化だ。彼らのはなしのなかに、身ぶりに、真剣さが充満している。そこにあたらしさがある。未来への可能性がある。」若さと力が溢れている。だが、何度も繰り返したいのだが、この「誇り」と「笑い」は何かを通過したあとのもの、「告発でも糾弾でもない。恨みでもない」もっと深い何かである。
話はこれで終わらない。なんと三人は、東京でコンサートを企画する。そのコンサートのタイトルが「誇りと笑いの祭り」なのである。1979年3月8日、豊島公会堂で午後6時からこのコンサートは行わる予定だとこの記事には書かれている。「喜納昌吉の軌跡」にも書かれていたように、コンサートの企画はこの一回だけではなかったようである。2008年にある記事の中で保坂展人は次のように回想している。少し長くなるが中略を挟みつつ引用する。
沖縄を最初に訪れたのは、21歳のときだった。(…)那覇で荷物を置いたあとで、沖縄北部の農場に行って働いたり、中部東海岸の石油備蓄基地(CTS)反対運動の精神的なリーダーだった安里清信さんにもお会いした。宮古島に渡り、また石垣島、西表島と足を伸ばした。最後にたどり着いたのがコザ市(現・沖縄市)の喜納昌吉さん(歌手・現在は参議院議員)の店だった。深夜から明け方に至るまで話し続け、ヒートアップした。私は、東京に帰る船の切符もキャンセルして、約1週間にわたって毎晩、夜を徹して話し続けた。(…)それから私は東京に帰り、全国30カ所ぐらいで喜納さんのコンサートを企画・実行した。フリーライターとしての最初のデビュー作は『魂を起こす旅――喜納昌吉の世界』と題して雑誌『宝島』100ページを一気に書くことだった。沖縄を行き来するのはあたりまえになった[7]。
もうこれ以上私が何か述べる必要はないだろう。ただどのような熱狂が会場を埋め尽くしたか想像するだけである。文章はこう締め括られる。「千人の会場は、けっして広くはないが、79年春にふさわしい意欲と熱気、さらに根拠ある熱狂で埋めつくしてみたい。3月8日は確実に、根のある動きを糾合し、ゆるやかに出会う一つの水路となるだろう。」
『水牛新聞』が公開されたことであの時の水路が今でもこうして小さな水脈を保っていることを79年の保坂青年は想像していただろうか。私は、もしかしたら想像していたのではないか、と思ってみることにする。
***
今回は、主に三つの記事を読んだ。これ以外にも、触れたかった記事は多い。例えばホセ・マセダの「音楽における根源的技術と近代技術」は科学技術導入以前の音楽技術を考察している。その際に持ち出されるのは「人間精神」や「人々の文化思考」である。今、環境問題を論じる際に無視できないのは、例えば人類消滅後の世界をめぐる議論であるわけだが、ホセ・マセダの文章の中には、それとは異なる可能性が秘められている。科学技術を批判しつつ、もう一度「人間精神」の再構築を試みようとするホセ・マセダの思想は、現代の思想潮流を批判的に考えるうえで重要ではないかと思う。アンジェル・グレイ・ドミンゴによる「大いなる夢想、あるいは……——PETAの10年」は前回触れたPETAの活動を詳細に報告しており、貴重なドキュメントである。私はこの報告を読んで、これまで述べてきた内的貧困と身体的貧困という二つの「貧困」に対して、それらとは異なる静謐な「お祈」、そして「安らぎ」をもたらすものとしての「貧乏」についても考えねばならないと教えられた。キム・ジハの詩を原文と翻訳を比較しつつ精読する李銀子「『ソウルへの道』再考」も興味深い。時間とスペースの関係で他の記事を扱うことができないことが、毎回悔やまれる。次回は第4号を読む。雪が降るかもしれないので、どうぞお身体にお気をつけて。
註
[1]津野海太郎「地図をかさねる——地図論への視座」堀淳一他『地図の記号論——方法としての地図論の試み』批評社、1990年、32頁。
[2]「崎原盛秀さんインタビュー——現在に引き継がれる『金武湾を守る会』の闘い」『状況』2010年11月号。引用は、このインタビューが転載された「風遊」のサイトによる。URLは以下の通り(最終閲覧2020年12月16日)。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/kinwantoso.html – sakiharaseishu
[3]上原こずえ「民衆の『生存』思想から『権利』を問う——施政権返還後の金武湾・反CTS裁判をめぐって」法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』39巻、2013年、128頁。
[4]『思想』2010年9月号はこの「高度必需」を特集している。この特集には「高度必需品宣言」が中村隆之の訳で掲載されている。
[5]「崎原盛秀さんインタビュー——現在に引き継がれる『金武湾を守る会』の闘い」前掲インタビュー。
[6]「喜納昌吉の軌跡」喜納昌吉&チャンプルーズ公式サイト掲載情報。URLは以下の通り(最終閲覧2020年12月16日)。
http://www.champloose.co.jp/history-cat/1976-1980
[7]保坂展人「第8回『子どもの現在』」『不登校新聞』2008年9月15日。URLは以下の通り(最終閲覧2020年12月16日)。