1980年代のジャカルタで生まれたブドヨ~『キロノ・ラティ』

冨岡三智

4月29日は世界ダンスの日である。インドネシアのタマン・ミニ(テーマパーク)でも毎年舞踊公演が行われてきたが、今年はコロナ禍の折柄、各団体の公演映像が配信された。スリスティヨ・ティルトクスモ氏の2作品:スリンピ『チャトゥル・サゴトロ』とブドヨ『キロノ・ラティ』も、タマン・ミニに所属する舞踊団により上演された。前者については『水牛』2021年1月号に書いたので、今回は後者の作品を本人へのインタビューに基づいて紹介しよう。

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ブドヨ『キロノ・ラティKirono Ratih』はスリスティヨ・ティルトクスモが1982年に振り付けたブドヨ作品(9人の女性による舞踊)である。初演時は『レンゴ・プスピト Renggo Puspito』という題だったが、後に『キロノ・ラティ』と改題された(後述)。弓を射る鍛錬をする女性たちを描くことを通して、自立や信念のために戦う女性の強さの中にある美しさを描いている。弓は武器であり、また素早く的確に伝わる思いや感情のメタファとなっている。

●振付家
1953年スラカルタ生まれ。幼少より複数のスラカルタ宮廷舞踊家に師事。1969~1971年『ラマヤナ・バレエ』で2代目ラーマ王子をつとめ、その間、全国ラマヤナ・フェスティバル(1970年)、国際ラマヤナ・フェスティバル(1971年)に出演。1971年にジャカルタに移り、舞踊家、振付家として活躍。スラカルタ宮廷のスリンピやブドヨを多く伝承する他、主な振付作品にはスリンピ『チャトゥル・サゴトロ』(1973年)、ブドヨ『キロノ・ラティ』(1982年)、ブドヨ『スルヨスミラッ』(1990年)。現代舞踊作品『パンジ・スプ―』(1993年)などがある。

●音楽と振付
この作品では「ボンダン・キナンティ」という曲を使用する。ロカナンタ社からマンクヌガラン王宮で録音された曲のカセットが市販されているが、氏はそのカセットを聴いていた時、「ボンダン・キナンティ」の曲からテンポが速くなって「ラドラン・スマン」に移行する部分でインスピレーションを得て、この作品を振り付けたという。したがって、曲の進行はこのカセット通りなのだが、テンポが速くなるとジョグジャカルタ宮廷の舞踊のようにスネアドラムとトランペットの音を追加し、踊り手が勇壮に弓を構え何度も左右を睥睨(へいげい)するシーンの表現としたところに、この振付家の独自性が現れている。1970年代以降、スラカルタの芸術大学では新しい宮廷舞踊作品(スリンピやブドヨ)がいくつも創られたが、スネアドラムやトランペットを取り入れたものはないようだ。氏は母親がジョグジャカルタ出身であることから、自身のルーツの表現として意識的に取り入れたという。

この作品では踊り手は弓を手に登場する。スリンピやブドヨの振付には必ず戦いのシーンがあるものの、実際に武器を手に持つ演目は少なく、戦いは抽象的に描かれる。しかし、本作に限らず氏の作品では武器を実際に所持し(スリンピ『チャトゥル・サゴトロ』ではダダップ、ブドヨ『スルヨスミラッ』ではピストル)、古典的な振付よりも激しく戦い、リアルさを感じさせるのが特徴である。

これらの武器の中でなぜ弓を選んだのかとたずねたところ、特に理由はないが、弓は自分自身の一部のように感じているという。氏自身、『ラマヤナ・バレエ』のラーマ王子や古典舞踊のクスモウィチトロ(演目『サンチョヨ×クスモウィチトロ』)の名手として有名だが、これらのキャラクターはいずれも弓を持つ。そういえば、現代舞踊として振り付けた『パンジ・スプ―』でも、氏は弓を手にしていた。

本作で使う弓には矢がセットされており、スリンピやブドヨ専用のデザインである、この場合、踊り手は箙(えびら、矢を入れる筒)を肩に背負わない。このデザインの弓を持つスラカルタ宮廷の舞踊はスリンピの『ロボン』か『グロンドンプリン』しかないが、氏はこれらの舞踊は見たことはないという。では、弓の扱いは何を参考にしたのだろうかと思っていたところ、Tyra Kleenというスウェーデン人画家が1920年代に描いたスラカルタ宮廷の踊り子の絵画を参考に、イメージを膨らませたとのことだった。

本作の前半では、スリンピ『ゴンドクスモ』や『タメンギト』の動きが多く取り入れられている。テンポが速くなると、踊り手はまず一列横隊になって弓を構え、場所移動して次は飛行機のようなフォーメーションで一方向を向いて弓を肩の高さに掲げ、再び移動して今度は弓を放つ(といっても矢はセットされているので、飛んでいかない)。テンポが速くなると上述したようにスネアドラムとトランペットの音が入り、踊り手はその音に合わせて軍隊のように力強く頭を左右に振り、裾を蹴る。そのシーンは非常に強い印象を与える。弓を射るや一転してシルップ(鎮火の意。音楽が静かになる)となり、外側にいる5人が座り、中央にいた踊り手4人が立って踊る。シルップのシーンの動きはスリンピ『スカルセ』から取られている。シルップが終わると踊り手は最初の位置に戻って曲が終わる。その後扇を取り出し、それを扱いながら退場する。『チャトル・サゴトロ』でも最後に扇を取り出すが、これはフェミニンな雰囲気を取り戻す効果を狙っている。このように、氏はダイナミクスの変化をはっきりと打ち出すことを重視している。

本作は初演時は約25分の作品だったが、その後様々な機会で上演できるように本人の手で短縮され、現在は約15分の作品となっている。また、次で述べるように初演時はファッションショーとしての上演で、舞台は狭いT字状のキャットウォークだったため、フォーメーションは現在とは異なっていた。なお、1985年からは大統領宮殿で国賓を迎えての行事で上演されるようになった。

●初演とイワン・ティルタ
この作品が初演されたのは、1982年12月14日、ジャカルタのマンダリン・ホテルである。雑誌社のフェミナ、バティック(ジャワ更紗)作家のイワン・ティルタ、化粧品会社のレブロンがスカル・ムラティ財団のために行ったチャリティショーの一環であり、自身のデザインしたバティックをプロモーションすべく、イワン・ティルタがスリスティヨにブドヨ作品を依頼したのである。1970年代末頃からイワン・ティルタはジャカルタにおけるジャワ舞踊公演のパトロンとして活躍するようになっていた。スリスティヨはこの公演の前に何度か共同したことがあり、この後約30数年にわたり彼と共同することになる。初演時の衣装はイワン・ティルタがデザインしたドドッ・アグン(上半身に大きな布を巻き付ける着方)で、バタッ(最重要の踊り手)はガガッ・セトgagak setoと呼ばれるモチーフの、それ以外の8人はスメンsemenと呼ばれるモチーフ(ジョグジャカルタ王宮で結婚式に用いられる柄)のバティックのドドッ・アグンを着用した。しかし、それ以降はドドッ・アグンの場合もあればビロードの上着に冠を被ることもあり、上演の場に応じて自由に選ばれている。

●初演とムルティア王女と作品名
実はこの初演時にバタッを務めたのが、当時22歳だったスラカルタ王家のムルティア王女である。スリスティヨは元々スラカルタ王家の踊り手であり、王女のきょうだいたちと懇意だった。当時、ムルティア王女はジャカルタの国会図書館で研修を受けており、それを知ったスリスティヨが自身の教える舞踊団の練習に参加するよう誘ったのである。その際に王女からスリンピ『スカルセ』を習い、それを『キロノ・ラティ』の振付に生かしたという。このチャリティーショーの様子を取材した雑誌フェミナの記事には、王女にとってこの上演が王宮外で踊った最初であると記されている。

当初、スリスティヨは作品の題を「レンゴ・プスピト(レンゴの花)」としていた。女性たちを花にたとえたのである。しかし上演後、イワン・ティルタから題がバティックのモチーフ名と同じで、舞踊作品名としてはふさわしくないと言われ、改題することにした。そこで、大学でジャワ文学を専攻していたムルティア王女に命名を依頼し、その結果王女が考案した名が『キロノ・ラティ(月光の意)』だった。バティックのモチーフ名を舞踊に使うのがなぜふさわしくないのか、スリスティヨはその理由を聞いていないそうだが、おそらく、バティック作家であるイワン・ティルタにとっては、舞踊のイメージとバティックのモチーフのイメージにずれがあったのではないかと想像する。

なお、このような経緯があるため、スラカルタではブドヨ『キロノ・ラティ』の作者がムルティア王女だと信じる人もいるが、実際はスリスティヨ氏の作品である。とはいえ、王女がこの作品の成立に影響を与えたことも事実である。