シャルル猫(ボードレールのLe Chat から出発して)

管啓次郎

ボードレールが生まれて200年
彼が生まれたのは1821年4月9日
それでその日は花祭りに1日おくれて
砂糖黍の茶色い砂糖を入れたマテ茶を飲みながら
『邪悪の花々』を読んだ
おりしもベランダにやってきた
茶虎色のどこかの猫にむかって
「猫」をその場で訳して聞かせたんだ
その猫の名前は知らないが
近所のどこかで飼われているにちがいない
人なつこく
物に動じない
いい猫だ
「おいで、かわいい猫よ、愛するぼくの心臓の上に」
ぼくに愛はあまりないが
受け入れることも愛の一形態だとしよう
胸に乗られたら重いな
「足のつめは引っ込めて
金属と瑪瑙が混ざった
おまえのきれいな目にぼくを跳びこませてくれ」
突然シャルルらしくなるのは
メタリックな輝きと瑪瑙を目に見るせいか
2つの名詞をもって猫の目を形容しなさい
古墨と琥珀ではどうだろう
「ぼくの指が気ままに
おまえの頭としなやかな胴を撫でるとき
おまえのびりびりする体にふれて
ぼくの手がよろこびに酔うとき」
猫の体が電気的なのは自明
経験的にいってもそうだ
ここではélastique とélectriqueが作る
呼応にシャルルがいる
そのどちらにもelle(彼女)が
半ば姿を見せている
それで
「ぼくはぼくの女を心に描く。彼女のまなざしは
かわいい獣よ、おまえのそれとおなじく
深く、つめたく、短剣のように切る、裂く」
深く(profond)
つめたく(froid)
切る(coupe)
裂く(fend)
ああ、シャルルが全開だね
こうしてくりかえされる f の音は
呼気をともなわないかぎり意味をなさない
つまりf が生じるたび
存在は破れる
そんな f の反復を
あらかじめ断ち切っている(coupe)のも
シャルルの天才か
猫よ、わかるかい、この coupe
にはcou すなわち首が潜んでいるよ
予告された斬首のように
「そして、爪先から頭まで
繊細な空気、危険な香りが
おまえの茶色い体のまわりを漂うんだ」
シャルルは猫に女と共通するものを見たが
そんな擬人法は一種の洒落にすぎない
じつは猫そのもののほうが
はるかに魅惑的だ
この場の空気を猫の
のびやかな体が切り抜いてゆく
猫にかぐわしい匂いはないが
精妙な動き、微細な振動が
まるで香りのように感じられるのはよくわかる
それは存在に特有な危険の香り
寝そべる茶虎の体にふれると
茶虎はごろごろとのどを鳴らして答える
春の日向であたたまって
猫はぐんにゃりとやわらかい
猫は人ではない
人を意に介さない
詩を読まない
詩を考えない
でも詩は猫の存在を
一面の存在風景から切り抜いて見せる
シャルルが呼びかけたあの猫は
ほぼ2世紀を超えて
寝そべるぼくの胸に乗ってくる