鳥が見えなかったのである。
いつも歩くコンクリートに固められた川にも、その両端にわずかに草が生えているところがあって、そこにカワセミが止まっていたのだという。それがどうにも見つけることができなかったのだ。まごまごしているうちにその鳥は飛び去ってしまった。折角のカワセミの出現だったのに見逃して惜しいことをした、という思いと同時に、ずいぶん長くポンコツの眼を使ってきて、いずれは手術とは分かってはいても曲がりなりにも「見る」ことを商売にしている身にとっては肉眼を失うことはなんとも耐えがたいものがあった。
レンズを人工のものにしてしまえば、何かが大きく変わってくる。
何が変わるのか、予測できそうでできないその「恐れ」みたいなものが、手術をせずに騙し騙しやっていくということを選択させてもいたのだった。
月を見上げれば、煌々と夜空にあるそれは一つではなく輪になってもう幾つあるのか分からない。いつもとは言わないまでも、目の前で話す人の輪郭がブレている。眼鏡ではもうピントが矯正できないため、本を読む時は眼鏡を外し、紙面を眼から数センチのところまで近づけて読んでいた。暗さのある古本屋や美術館は、もっといけなかった。光がないため、棚の上の方にある背表紙に何と書かれているかは読めず、ガラスケースに隔てられた小さな絵は、どのように描かれているか見えないのだった。
それにしても悪くなったものだ、ポンコツだとしてもどのくらい悪くなっているのか検査をしておこうと久しぶりに病院を訪れ、あれこれと検査を受けると、左眼はまだマシだが右眼はすでに色も見えていなければ立体にも見えておらず、それどころか1年持たず手術が難しくなるだけでなく失明する危険性もある、という診断だった。
思いがけないことで、事態がよく飲み込めず、とりあえず冗談を言ってみたりしたのだが医者はニコリともしない。なるべく早期の手術を、とあれよあれよと言ううちに専門医への紹介状を持たされ診察をうけると、こりゃあ、ひどい、と言われ、あっというまに手術の日取りの相談となった。私の水晶体は、白く濁っているのではなく、赤黒く凝固しているので、濁りを吸い出すのではなくレーザーで砕いて取り除き、そこに人工のレンズを入れるのだと言う。
絶対に手術してくださいね、と周囲の何人かからそう言われた。自然に任せて、とか言い出しそうだから、と。「変わってしまう」ことは、やはり悲しかった。私がこの世界を愛しているとして、それはこの「見えない」眼によって培われていることだから。例えば棟方志功の眼がよかったら、あのように板に張り付いて板木を掘ることもないであろうし、あのような版画にはならないであろう。なぞらえることは無意味かもしれないが、私もまた眼からわずか数センチのところの距離感の中で世界に対する愛情を作っていたのではないか。見えなくなることは悲しいが、肉眼を失うこと、人工のレンズでしかもう愛しいものを見ることができない、と言うこともまた途方もなく悲しいことであった。世界は肉眼で愛おしむものだ、手術の前夜そう思った。
手術は通常片目5分で終わる手術が20分ぐらいずつかかったのではないだろうか。
麻酔の目薬を打ち続けた眼の中に、ずっと赤い光がゆらゆらと形を絶えず変えながら見えていた。鬼火というものを見たことはないが、あるとすればこのように見えるのではないか、と手術の間ずっと思っていた。耳からは、医師たちの話し声と音楽のような電子音が聞こえていた。しばらくして、眼の中がブラックアウトした。ああ、今レンズが失われた、と思った。そのうち目の中を植物文様のようなものが走り、やがてまた鬼火が眼の中をちらつき始める。人工水晶体が入ったわけである、おそらく。
手術が終わり、麻酔が切れて人工水晶体が入った眼がはっきりしてきて、見えてきた「像」に対する初めての感想は、安っぽいな、だった。肉眼のレンズに比べて、人工のレンズが見せる像は、どこか安っぽく感じたのである。肉眼というのは、よく出来ていると思った。「像」に深さが足りない。目から数センチのところで作っていた感覚も失われてしまった。眼の中に入れた単焦点レンズは目から40センチのところでしかピントが合わないのだ。その距離と胸の奥にある愛おしむ気持ちのバランスがまだとれない。今まで眼の中にあった赤黒いレンズは取り除かれて透明なレンズが入ったため、レンズ特性はあると思うのだが、光と共に「色」が眼の中に氾濫した。濁りのない緑が鮮やかに飛び込んでくる。そして何より、朝の光が、こんなにもほんのり紫がかっているとは思わなかった。それはそれで大手術だったのですよ、安静に、と言われたのをいいことに、一日中近くにある林の樹々を眺めて暮らしていた。初夏になって盛り上がってくる緑の様々な度合いと細部が見える。美しい。
そうなのだ。安っぽいレンズで見ても、なお世界は美しい。