懐かしい人

植松眞人

 ずいぶん前のことになるが、懐かしい人から電話があり驚きながら話したことがある。最初の数分はたがいの声の懐かしさを確かめ合うような具合だったが、やがて私の側はこの電話の真意を確認するような気持ちになり、相手は私に真意を伝える段階に入ったという声色を発するようになった。そのことは双方の同意事項であるはずなのに、それでも言い出しかねている間に、懐かしい話に連れ戻されたり飛ばされたりしている時間があった。そして、いざ聞いてみると以前のように仕事をしませんか、という申し出であり、こちらとしてもかまいませんよ、という気持ちだったのでそこで笑い合いながら電話を切ることになった。
 電話を切ってからが大変だった。懐かしい気持ちはあるのだが、なぜその懐かしい人と疎遠になったのかが思い出せないのだ。仕事をしませんか、と言われたら、はいわかりました、と言えるくらいに勝手知ったる仕事だし、同じような仕事は他を経由していまでも続けていたので、なぜ、その人とだけ疎遠になったのかが気になって仕方がない。
 疎遠になって数年。私は思い当たってメールを検索してみたのだった。その人の名前をノートパソコンのメールアプリの検索欄に入力すると、以前仕事をしていたときのメールが何度もスクロールしなければならないくらいに出てきた。五年近く使っているパソコンなのだが、買い替えた時にはすでに彼女と仕事をしていたので、このパソコンに残っている一番古いメールも彼女からのメールだった。こうして、古いメールを飛ばし飛ばし見ていると、いろんな仕事をしていたことが思い出された。時にはただ飲み会に行く行かないの他愛ないメールもあり、思わず微笑んだりしたのだが、ああ、そうか私はこの女性をわりと好きだったのだということを思い出した。気が合うのか合わないのかと言われれば気は合わないのだが、私はその女性の仕事への懸命さと顔かたちが割と好きだった。それで大きな下心もなくごくたまに飲んだりしていたのだが、大切なところで話が合わないし、気が合わないのでそれほど話が弾むというわけでもなく、飲み会の回数は年に一度か二度程度だった。それでも、メールを見返していると相手からはもっと頻繁に誘われていることに気がついた。相手が何度も誘いのメールをくれていて、ただ私の側が年に一度か二度応じているのだった。
 こうして十年ほど前から四年ほど前のメールを見返していると、私と彼女の関係を改めて辿っているようで懐かしさよりも好奇心のようなものが勝ってきた。彼女の名前は大久保由紀というのだが、取引先の広告代理店のディレクターをしていたころから私に仕事をふってくれていた。しかし、五年ほど前に退社し小さな制作会社へと移った。そこは、私と彼女の古巣である広告代理店を辞めた取締役が作った小さな会社だった。会社と言っても実際には私の上司でもあった取締役と大久保さんだけの二人の事務所で、この二人が男女の関係なのだろうな、と私は考えていた。そこに移ってからも大久保さんは私に仕事を振ってくれていたのだということは、メールをたどればすぐにわかった。なんとなく、転職して縁が切れていたと思っていたから少し意外だった。
 大久保さんからのメールが途切れたのは、彼女が転職してから約半年ほどしてから。私が書いた広告の文章へのフィードバックを彼女がくれて、私がその修正を加えて返したメールでやり取りが途絶えた。正確にはその後、二度、三度、大久保さんからのメールがあるのだが、私は一度も返していない。ということは、この最後の仕事に彼女と疎遠になった理由があるのだろう。私は私が最後に返したメールを読んでみた。ビジネスライクなただのメールだった。ひとつ前のメールも同様だったので、メールからでは理由がわからないのではないかと思いながら、もう一つ前のメール、彼女からの最初のフィードバックを読んでみた。そのメールは少し長かった。一度、先方がOKした文章に突然の変更が入った。制作側全員がこれはいい、と気に入っていた文章だったのだが先方がどうしても変えたい、というのだから仕方がない、という内容だった。いま読んでも、その申し出には異論はないし、ましてやそこで縁が切れるような内容でもない。それでも、私たちの仕事はここで途切れているのだから、なにかありそうなのだが、と思いながら私はそのメールを二度、三度と読んだ。そして、思い出したのだった。いや、正確には気づいたのだった。メールのCCに私たちの元上司のアドレスが突然記入されていたのだ。それまでずっと私と大久保さんの二人のやり取りだったのに、先方が無茶な変更を入れてきたというメールに限って、彼女は上司に同報していたのだった。それに気付いた私は、この変更が先方ではなく上司による変更だと直感した。それまでの経緯を考えると、そのクライアントがこのタイミングで変更を入れてくることなど考えられなかったのだ。しかし、私たちのかつての上司、そして、大久保さんの今の上司はそういうことが好きな人だった。入稿直前の原稿に些細なミスを見つけて変更を入れさせることで、自分の存在価値を見せつけるような人だった。そういえば、私はこの人が嫌いで早くにフリーランスになったことを思いだした。そして、同時にこの上司に入れられた変更をクライアントのせいにして、大久保さんは私を納得させようとしているのだ、ということを察知して、私は瞬間的に大久保さんとの仕事を最後にしようと決めたのだった。そのことをいま思い出してしまった。そうか、私が大久保さんと疎遠になったのはやきもちだったのだ。私は自分よりも上司との関係を優先させた大久保さんに腹を立てたのだった。
 いまも大久保さんはあの上司と一緒に働いているのだろうか。それとも別の男と一緒に別の制作会社にいて私に仕事をふろうと考えたのだろうか。そして、あの時、私が大久保さんになんの返信もせずに関係を切ってしまったのかを大久保さん自身は考えたことがあるのだろうか。いや、そんなことを深く考えない人だからこそ、私は大久保さんと飲みに行ってもさほど気が合わず話が合わなかったのだ。
 どちらにしても、一度仕事を請けると言ってしまった以上、また大久保さんとの仕事は始まってしまうのだろう。そして、彼女と仕事をしていればまた同じような腹立たしい場面が現れるに違いない。
 さて、どうしたものかと私はノートパソコンを閉じるのだった。(了)