しもた屋之噺(257)

杉山洋一

未だ明けきらない曇った朝空を眺めていると、時々、ぽろろろぽろろろと、どこからか鳩の啼き声が聞こえます。それも一箇所からではなく、左手前や右奧から、短い断片がおずおず聞こえたかと思うと、すぐに止んでしまいます。そうして少し静寂が戻った隙に、遠く微かに雀の囀りが聴こえたりします。
行交う車の喧騒に搔き消され、不可視となった鳥たちの社会を観察していて、自分に目に映る世界など、社会全体の1%にも満たないとも思うのです。各存在はそれぞれ存在理由を持ち、それぞれ道理に基づいて社会を築き、社会生活を営んでいるとすれば、自分の道理を彼らに当て嵌めるのは傲慢が過ぎているのかもしれません。互いに認め合って共存するにあたり、何が不足しているのか、自問を繰り返しています。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は、ドイツから遥々浦部君がレッスンを受けに来た。意欲旺盛で頑張っている。レッスン室代わりに使っているサンドロの自宅はここから徒歩5分の処にあって、戦前のアパート群中庭に設らわれた旧い工場を改造した、所謂ロフトである。
ここの集合住宅には、息子が幼稚園、小学校時代に仲の良かった、2歳年長のニコライが住んでいた。彼はロシア人とイタリア人の考古学者カップルから生まれた男の子である。
ロシア人の父の血を引いているからか、ニコライは息子よりずっと骨太で体格も良く、度のきつい大きな眼鏡をかけていた。学者の両親の影響なのか繊細でもあり、時には少し気難しくもあった。彼の両親は別れていたから、ニコライは母親と祖母に育てられていて、気性も激しかったから、彼女たちが時に手を拱いていたのも覚えている。
浦部君のレッスンの合間に、ピアニスト二人にバールでコーヒーを買ってこようと外に出たところ、中庭の塵芥集積箱のところで、ニコライの祖母が手で分けながら分別ゴミを入れていた。
「本当にお久しぶりです。みんな元気ですか、コロナの間も大丈夫でしたか?」。
「ええ、いつもの通り。お陰様で元気ですよ。コロナにも罹らなかったし」、と軽く微笑んで答えてくれる。
「ニコライも変わりありませんか」。
「ええ、いつもわたしたちの傍にいますよ」。
「どういうことです」。
「あの時から、何も変わっていません」。
「どうしたんです、何かあったのですか」。
「お話ししていませんでしたか。彼は天に召されたんです。あれはコロナが始まる直前でしたか。厄介な心臓の病気で、一年ほど辛い闘病生活をしましてね」。
「何てことだ。何も存じませんでした。だって、最後にお話しした時、ニコライは川向うのカヌークラブで精を出しているって、随分お話しになっていらしたじゃないですか」。
「ええそうなんです。でも、あれからすぐに病気が見つかって。病気のために全ての運動を禁止されてしまって、本当に可哀想でした。彼はひどく怒りましてね、それで頑張ったんですけれども、寿命ばかりは神さまがそれぞれにお与えになるものです。わたしたちには、どうにもできない運命でした。でもこれで良かったのかも知れません。短かったけれど、ニコライは素敵な人生を歩みました。あれ以来、彼の母親は昔勉強したロシア語にすっかり夢中です。ロシア語を学び直すと言って朝から晩までロシア語漬けになっています」。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は3年間教えてきたマルティーナとフェデリーコ、最後のレッスン。ふら付くマルティーナの上半身をどう安定できるか長く悩んできたが、結局ギターを弾いているため、背骨が極度に湾曲しているのが原因だったようだ。曲がった背骨を敢えて受容れ、いかに重心を下げて、安定させるかを一緒に考える。
13時過ぎにレッスンを終え、自転車で国立音楽院に向かう。14時から、ダヴィデが教える「現代ピアノ作品講座」クラスに顔を出す。10人ほどの学生を前に、ダヴィデと二人、自作についてとりとめもない四方山話をしてから、3人の学生がそれぞれ「間奏曲7番」、「スーパーアダージェット」、「山への別れ」を披露してくれた。
どの演奏もそれぞれ弾き込んであって素晴らしかったが、特にディーマの弾く「スーパーアダージェット」には舌を巻いた。ディーマ曰く、一箇所内声がマーラー原曲と違うそうで、何故かと尋ねられたが、何も憶えていない。
高校でマンゾーニの「いいなずけ」を勉強したばかりの若者たちが、ミラノの大学で「山への別れ」を弾くと、非常に臨場感に漲るようだ。ルチアとレンツォの深夜の逃避行の様子や、眼前に広がるレッコの断崖などが目に浮かぶようである。彼らの方がよほど、作品の本質を正しく掴んでいるようで、不思議な体験であった。
目の前の10人の学生の中には息子も入っていて、息子を前に真面目に昔話をするのは、新鮮でもあり、多少の照れも覚える。
どのようにしてイタリア現代音楽に興味を持つに至り、イタリア留学をはじめた当初、このミラノ国立音楽院に通っていた当時の話をし、そこで出会ったドナトーニやカスティリオーニの話をして、日本とイタリアの音楽観の差異について話す。
興味深かったのは、ダヴィデが、「ドナトーニにとって、システムの厳守は、時に耳で音を選択するより重要だったりするんだよな」と言い放っていたことと、彼から「どうして、ピアノを弾かないのに、ピアノ曲をこんなに沢山書いたのか」と質問されたこと。
前者のダヴィデの見解は、強ち間違いではないと思う。システムを厳守し、そこで選ばれた音を敢えて否定しない姿勢は、まるで手抜きにも聞こえるかも知れないが、実はそうではない。敢えて自分の手から解放したものを、自らの責で受け入れるのは、相応に勇気と技術が必要とされるし、対位法に取組む姿勢に少し似ているのかも知れない、と随分経ってから実感するようになった。その次元に到達すると、システムの構築過程そのものが、音の選択とほぼ同じ価値を持つようになる。丹精込めて音を託せる回路を作り上げ、後はそこに音の生成を任せる。
帰宅すると、「今日は、全く知らなかった父親の話を沢山聞けて面白かった」、と息子もまんざらでもない風情であった。

6月某日 ミラノ自宅
ウクライナ、ナホトカダム崩壊。水没してゆく街の風景や、水門を超え勢いよく広がりゆく水流の姿は誠に超現実的な光景であって、生活臭も現実感すらも消失し、静謐さに満たされて、恐ろしいほどの美しささえ湛える。あの茫洋たる水面の底に、藻屑と消えた無数の命が沈む。
人間はどうしてこうも愚かな存在なのか。核戦争が始まれば、やはり同じように、焼き尽くされ灰燼に帰した地表が超然的な静けさに覆われ、続いて訪れる核の冬では、それら全てが煌めく美しい氷に閉ざされ、或いはその氷が地球全体が覆い尽くして、宇宙から眺める地球の姿すら、変化を来すのだろうか。
今晩、家人とルカが、ホルスト「惑星」オリジナル2台ピアノ版をミラノ市立のプラネタリウムで演奏したが、その折、2013年7月19日NASAの探査機カッシーニが撮影した有名な土星の写真が、スクリーンに投影された。
土星の輪のずっと奥に映り込む小さな白点。15億キロ離れた地球、つまり、そこに暮らす我々皆が映り込んだあの写真だ。土星からみれば、あれほど小さく美しい、慈しみに満ちた光の点に過ぎない我々だが、こうして互いに諍いを繰り返し、一心不乱に自壊を続けるのは何のためか。
「このちっぽけな星の中で戦いは繰り返され、今も辛い思いをしている人たちがいる」、そう天文学者がコメントすると、漆黒で満席のプラネタリウムは、自然に沸き上がった拍手で満たされた。

6月某日 ミラノ自宅
日がな一日、大学の試験をやり過ごしてから、夜は家人と連立ってマンカのヴァイオリン協奏曲世界初演を聴く。コロナ禍で初演が3年近く延期されていて、漸く実現の運びとなった。実に強い意志を持つ、魅力的な音楽であった。
昼頃だったか、ベルルスコーニが死んだらしいと、試験の採点をしていた同僚が、風の便りで聞いてきた。それに対する同僚たちの反応も特になくて、遅かれ早かれそうなると思っていた、程度のものだったから、肯定でも否定でも、もう少し目に見えた反応をすると想像していたので、少々肩透かしを喰らった気分であった。息子の友人たちとのチャットのやりとりによると、彼らはこれで社会が好転すると信じているようであった。
1995年、最初にイタリア政府給費留学生としてミラノに住み始めたとき、ベルルスコーニが首相の職にあった。彼が給費を期間途中で中止する暴挙をしなければ、自分の人生は全く違ったものになったかもしれない。イタリアに居残る選択もしなかっただろうし、生活のため指揮をする必要もなかった。
ベルルスコーニのようなポピュリズム右派政権だったから、我々留学生はこんな仕打ちに遭った、と当時は皆で話していたけれど、その後左派政権に変わったからと言って、外国人への対応が変わるわけでも音楽家が暮らしやすくなるわけでもなく、自分の生活は、自らが粛々と守るしかなかった。かかる自覚を否が応にも植え付けたベルルスコーニに対して、今となっては多少なりとも感謝すらしている。
3日間の喪に服すとの政府発表だが、喪中は何が変わるのか同僚に尋ねたところ、国の公共機関が休業するのだそうだ。大学の試験には特に何も変更はなく、市役所など窓口が機能しなくなるという。

6月某日 チッタ・ディ・カステルロ・ホテル
いくら頭の中で作曲は進んでいても、学校に忙殺されて机の前に座るのも儘ならず、忸怩たる思いばかりが募っている。最近何度か、石井真木さんと島田祐子さんと一緒にテレビにでている小学生の頃の写真を見かけた、と連絡をいただいたが、その度ごとに、功子先生と仲の良かった真木さんが、こちらの作曲の進捗状況を気にしているのか、さもなくば警鐘を鳴らしているのか、何某かのメッセージではないかと気を揉んでいる。
朝、フィレンツェ駅前の宿を出て、9時45分発の準急でアレッツォに向かい、そこで車に乗り換えてチッタ・ディ・カステルロに向かう。アレッツォは郷土祭「サラセン人馬上槍試合(Giostra del Saracino)」の準備が佳境を迎えていて、街中至る所に、コントラーダと呼ばれる地区チームの巨大な旗が掲げられていた。
道中、所々横断する川は酷い濁流で、氾濫しかかっているようにさえ見える。聞けばこの処ずっと毎日酷い嵐のような驟雨が続いていて、今日のように晴天に恵まれたのは久しぶりだという。
初めて訪れるシャリーノ宅は、チッタ・ディ・カステルロの中心あたりにあった。旧く重厚な木の外扉を押し開け、ルネッサンス期から残ると思しき石造りの集合住宅に足を踏みいれる。呼び鈴横のシャリーノの名札はすっかり古びていて、歪んですらいるのが印象的であった。
地階にはシャリーノが物置として使うガレージがあって、フィレンツェの劇場大道具係から贈られたという舞台装置などが、きちんと保管されていた。
その脇から続く小さな石階段を3階まで上ると、そこがシャリーノの家の玄関である。玄関の天井には覗き窓が開けられていて、中世、人が訪ねてくると、まずそこをそっと開き、相手を確かめていたという。その玄関口を抜け、旧くすっかり磨り減った細い石階段を引き続き15段ほど登ると、彼の居間入口に立ち至る。20畳ほどの空間に、漢時代の中国古美術やら、彼が蒐集する古代の石器などが犇めいていて、壁には隙間がないほど、沢山の油絵が飾られている。
隣の部屋には整然と書架が並び、それぞれの棚は、歴史書、ジャポニズム云々とジャンル毎に丁寧に整理されていた。
引続き細い石階段を昇った4階は、2部屋に亙って彼の仕事部屋として使われている。
そのうちの一つの部屋には、大きな仕事机が置かれ、隣の部屋には小さめのグランドピアノがあった。そこには天井から大きなジャワの影絵人形が吊られていて、ピアノの上にはモーツァルトかシューベルトか、何某かの編作と思しき、書きかけの楽譜が無造作に置かれている。
これらの部屋にも油絵や鉱石、無数の石器などが、あらゆる場所に飾られていて、その周りにオリエンタリズムの薫り高い1890 年製カルロ・ブガッティの木製ベンチなど、貴重な調度品が数多く飾られている。それぞれが価値ある骨董品だという。
ドナトーニやブソッティの家のような、整然として実用的な感じは皆無でより開放感があって、物品の多さからか、やや雑然とした雰囲気すら漂う。
そこからより細くなった階段を頭を低くして登った所に、当初、屋根裏部屋として物置などに使われていた空間があって、そこに彼の寝室と別の書斎、そして便所がある。厠の場所はもともと鳩小屋であった。
そこかしこに石や石器が並べてあり、シャリーノはそれを一つずつ手に取って説明してくれるが、石器そのものも、石や鉱石にも石器時代にも疎いため、こちらの理解はまるで要領を得ず、説明してもらうのも申し訳ない。
書斎の奧には気持ちの良いテラスが張り出していて、育ち過ぎた松の盆栽が無造作に置いてある。目の前には自然の美しさを謳うウンブリアの丘陵が広がっていて、実に心地良い。カンカンカンカン、と教会の乾いた鐘の音が街中に響く。

6月某日 ミラノ自宅
早朝よりヴァイオリン協奏曲の仕上げをしていて、そろそろ完成かという時に、東京より緊急の打診を受けた。
プログラムに一柳作品が入っているのを見て、一柳さんがこちらの作曲進捗状況を見計らって、ここぞとばかりに連絡を寄越したに違いない、と思う。なるほどこちらの動向を逐一チェックしているとすると、にべもなくお断りするわけにもいかない。
試験の立ち会いを誰かと交替すれば、何とかリハーサルには間に合いそうなのでその旨学校に連絡をし、日本から送られてきた楽譜データを印刷屋に転送して、ヴァイオリン協奏曲の最後の仕上げに専心する。曲を仕上げて東京にデータを送ったところで、息子に手伝ってもらって伸び切った庭の芝刈りをする。この状況では次は何時刈れるかも分からないからだ。
夕刻、印刷屋にコピーを受取りにゆき、夕食後、製本と譜読みの下準備をしているうち眠り込む。一週間後に本番だなんて考えたくもなかった。

6月某日 ミラノ自宅
早朝より仕事にかかる。余りに膨大な音の洪水に仰天し、言葉を失う。印刷した楽譜サイズも小さすぎて音符が読めない。尤も、短期間にこれ以上大きなサイズで両面印刷は不可能だったからこれで読むしかなく、さてどう譜読みしたものか、途方に暮れつつ作業を進める。
リハーサルに必要な優先項目に合わせて、拍子とテンポ、それから全体構造の確認、フレーズ構造を書き込んでから拍に目印を入れてゆく。いつもと同じ手順ながら、少し違うのは、祈りながら仕事をしているところ。ストレスと目の酷使から、食欲もすっかり失せた。

6月某日 ミラノ自宅
春に肋骨を折ったことと、長らくヴァイオリン協奏曲の作曲が捗らなかった所為ではあるが、もう随分前から、寝ているのか起きているのか分からない日々が続いている。やりかけたスレンカ作品の強弱記号マーキングの残りは息子に任せ、一柳二重協奏曲の楽譜を開く。
特に先入観もなく一ページ目をめくり一段目から読み始めると、途端に惹きこまれてしまった。何気ない音の動きなのだが、琴線に触れるというのか、涙腺が緩むというべきか、我乍ら当惑するほどであった。センチメンタルな作品でないのは百も承知だが、冒頭からこれほど共感を覚える作品も珍しい。
音数は少ないのだけれど、フレージングを決めるのには酷く時間がかかった。意識的に少しアンバランスな構造に仕立ててあるので、こちらを立てれば、自動的にあちらが綻ぶようになっていて、腑に落ちるフレージングを見つけるためには、それらすべての可能性を試してからになる。ほんの少しずつ風景に遠近感がつき、色が塗られて、息吹が吹き込まれてゆく。

6月某日 三軒茶屋自宅
東京到着し、早速三軒茶屋に置いてあった大君の楽譜を確認。明朝から練習とは俄かに信じ難く、悪い夢ではないかと訝しむ。息子が強弱を丁寧に色付けしてくれた楽譜に感謝しつつ、何とかしなければいけないと自戒を新たにしている。

6月某日 三軒茶屋自宅
リハーサル初日。想像通り、オーケストラはとても好く準備出来ていたから、思い切り彼らの胸を借りて全体の把握に努める。そうしながら、3日間の練習後の落としどころ、完成形の青写真を描く。
ロシアにて、ワグネルの傭兵による武装蜂起。ロシア軍の南部軍管区司令部制圧。プリゴジン、ロストフ・ナ・ドヌーの司令部にて国防省幹部と会談。モスクワに進軍と息巻いている。

6月某日   三軒茶屋自宅
演奏会終了。オーケストラの演奏者一人一人の気持ちが纏まっているから、演奏中に指揮者が何をする必要もなかった。
一柳、二重協奏曲の曲尾では、まるで歌舞伎役者がここぞと大見得を切っている姿が目に浮かぶ。ちょうど横尾忠則の「写楽」のように、丁寧になぞられた輪郭を、敢えて機軸をずらして並べた塩梅か。そこに思いがけなく生まれる新しい空間、それは悉くアンバランスに見えるのだけれど、同時に発生する複数の不均衡は、そこにある種の均衡を生みだす。それにより、全体はより別の次元に昇華しつつ、デフォルメし続けてゆく。
一柳さんが素材をここまで客体化できなければ、より身体に纏わりつく質感のキュビズム状になりそうだが、一柳作品の音は、もっとずっと乾いていて、うっすら諧謔性すら身に纏っているから、反アカデミズムという駒尺れた反骨精神ではなく、もっとずっと広い空間に解放された、明るい色調のポップアートの自由さ、寛容さを伴っていて、聴き手に捉え方を強制もしない。
だから、西洋と東洋の触感を対立構造に落とし込むことなく、ごく自然に共存、共鳴しあっているのである。
曲頭から終わりまで、音程操作が徹頭徹尾貫かれているが、その音符が置かれるフレーズ構造も音の強弱も、全て少しバランスをずらして定着してある姿に、横尾「摺れ摺れ草」の連作を思う。
金川さんには、一楽章終わりのmfを、敢えて強く、バランス悪く弾いてもらったし、ヴィブラフォンにはモーターを入れ、銅鑼も、記譜通り、悪趣味ぎりぎり手前まで大きめに叩いて頂いた。そうすることで、音楽はより艶やかで、鮮やかに発色し、本條君の三味線は、洋楽、邦楽の垣根をすっかり飛び越えた独自の存在に変化する。
なるほど、一柳さんが拙作を面白がって下さったのは、この辺り音符へのアプローチを通してではなかろうか。今回、特に音符の価値観に対して、明確に共感を覚えたからだ。今回池辺先生から、「杉山の曲は滅茶苦茶だが云いたいことはわかる」、と云われ喜んだが、それも音符との関係性に因るかも知れない。
いつも一柳さんが着ていらした糊のきいたシャツと、お好きだった卓球と、嬉々として子供のようにピアノの内部奏法に熱中する姿を思い出して、胸が熱くなる。

道山君の音は、誠に霊妙であった。神秘的な弱音であろうと、激する強音であろうと、彼は発音する空間を一切攪乱しない。音が生まれる真空状態の空間の壁に、一切力を加えず柔能制剛と切込みをいれ、瞬時に外圧に同化させる妙技。そして同時に、大君の音楽の真骨頂である歌心も、存分に愉しませてもらった。

ミロスラフは演奏後、「実演でしか起こり得ない奇跡の瞬間、音楽も何もかもを超越した何かが、演奏中、聴き手に押し寄せてきたよ」、と目を輝かせて話してくれた。
レオ・レオニの「スイミー」で、無数の小魚が巨大な魚の形を形作って泳ぐ姿は、ちょうど「スーパーオーガニズム」の描く世界に近い。あそこまで綿密に書き込まれた楽譜を、少しだけ遠くから眺め、こちらの躰の緊張を解けば、まるであの絵本のような温かい世界が眼前に広がるのである。そのギャップが面白い、ともいえる。

6月某日 三軒茶屋自宅
一週間ぶりにコーヒーを呑み、こんなにも美味だったかと感慨を覚える。先月帰国の折、最後まで酷い時差呆けに悩まされたので、今回は、まだミラノ滞在中の帰国2日前から、一切コーヒーは飲まず機内でも断り、東京でも一切口にしなかった。そのお陰か、今回は帰国翌朝からのリハーサルもこなすことが出来た。
無理にでも毎晩1時くらいに布団に入れば、1時間以内には眠り込む。時差呆け故、夜間一度は目が覚めるが、目を瞑り続けていれば、もう一度明け方頃短時間眠りに就ける。
睡眠導入剤を試すべきか悩んだが、普段口にしていない薬で頭の感覚が鈍化するなら、万事休す。リハーサルにならないと分かっていたので、賭けのつもりで、薬は一切摂らなかった。
夕刻、町田に夕食を食べにでかける。下北沢まで前傾姿勢で乗る自転車で出かけたのだが、姿勢を前に倒すと、先に骨折した肋骨あたりの筋肉が攣れて痛い。まだ暫くあの自転車には乗れそうもない。ラッシュアワーだったので、下北沢から町田まで、電車は酷い混み様であった。肋骨を折った人間にとって、満員電車に揺られるのは、額に脂汗が滲むほど恐ろしい体験となる。もっと早くに家を出て、各停に乗るべきであった。町田で食べた江の島産「サザエ壺焼き」は絶品で忘れがたし。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝7時起床。浜田屋でパンを購い、高野さん宅で羽田に着いたばかりの家人と落ち合った。自宅で採れたブラックベリーと、自家製梅のジャムをヨーグルトに雑ぜていただくが、大変美味である。ブラックベリーの味は一様でなく、酸味の強いものからすっかり甘く熟したものまで様々で、それがまた良い。

6月某日 三軒茶屋自宅
早朝近くの寺まで散歩に出かけ、手を併せようと境内に入ったところ、住職と思しき男性からマスク着用を求められる。持参していなかったので仕方なく帰宅したものの、広い境内には住職と自分ともう一人、わずか3人居合わせただけであった。
新しく書いたヴァイオリン協奏曲の最後の辺り、何か遠い昔の記憶につながるものがあって、一体何かと考えこむ。
あれは小学校3年生終わり、逆にヴァイオリンを持ち替え、弾き始めたころではなかったか。午後の日差しは、日焼けしたカーテンを通して、レッスン室をセピア色に染め上げていて、功子先生は手本として、プニャーニ「前奏曲とアレグロ」冒頭の4分音符を弾いてみせてくださった。あの時の、勢いよく、情熱的に歌い上げる先生の音楽を、あれから40年近く経って、改めて思い返している。寧ろ、40年間もの間、身体の芯で沸々と声を上げ続けていた、先生の音に気付き、深く感動しているというべきだろうか。

(6月30日 三軒茶屋にて)