仙台ネイティブのつぶやき(87)細く煙の上がる家

西大立目祥子

どうやってあの場所にたどりついたのだろうか。そしてどうやって帰ってきたのだろうか。前後はほとんどなにも覚えていないのに、そこだけがぽっと明るく照らされたように残っている記憶がある。
夜、暗い雪の山道を上がっていくと大きな門を構えた旧家があり、真っ白な庭に灯った明かりに導かれて庭木の間を進んだ先には大きな土蔵があった。中には大勢の人の話し声が充満していて、すでに宴は始まっているようだった。

やがて、前の方の少し高い席に、ほろ酔いの敏幸さんがにこやかな表情で座った。語り出したのは、ここ宮城県鬼首(おにこうべ)地区の民話。いつものやわらかな低い声は、お酒が入ったせいか、つややかさが増しよく通る。心地よい抑揚の中で展開する話に引き込まれ、音楽を聴くように民話に酔った。宮城の方言はなつかしい歌のよう。
あのときは80歳をこえたくらいだったのだろうか。お開きになって、見送ったゴム長の後ろ姿が白い雪の中に黒く切り絵のように浮かんだのを、いまも忘れない。

敏幸さんは、山の暮らしがどんなものか、その細部を教えてくれた人だ。山菜採り、馬の飼育、米づくり、お膳づくり、炭焼き、材木の切り出し、ウサギ狩り、クマ狩り、野火つけ(山の野焼き)…。季節に追われるようにつぎつぎと異なる仕事をこなさなければならないのは、何か一つの仕事で家族の暮らしを維持することが難しいからだった。1つの専業を持って生涯を生きるという価値観が、そもそも豊かさに基盤をおいた戦後の発想なのかもしれないと気づいた。敏幸さんは、若い時分には分校の先生としても働いている。

季節の細かい仕事をこなしながら胸にあったのは、餓えへの恐れだったと思う。母から受け継いだ民話を聞かせる活動は、仕事の合間のささやかな楽しみだったのだろうか。いやそれ以上に、きびしい現実を乗り越えるために口ずさむ詩のようなものだったのではないだろうか。

話を聞きに通ううち、奥さんの五十子(いそこ)さんともよく顔をあわせるようになった。漬物や山菜をあれこれテーブルに並べ、何度もお茶を注ぎ足しながら、これまたやわらかい口調で話される。特に家族を評する話しぶりにはなんともいえないおかしみと温かみがあって、聞いているとくすっと笑ってしまう。家族の行動のあれこれをじっくり観察し、やんわり受け止めるユーモアのセンスというのか。嫁にきたときは14人家族だったというのだから、大勢の中で暮らすうちに身につけたセンスと生きる術だったのだろうと思う。

玄関で何度もごめんくださいと声をかけても、誰も出てこないことがあった。お留守なのかなと思いながら裏手へまわると、突き出た煙突から細い煙が上がっている。ガラス戸越しにのぞくとたたきにダルマストーブが据えられていて、その脇の板の間でお二人が芋虫のような格好で寝入っていて、笑ってしまった。なるほど、ここなら畑で作業をしたあと、ゴム長のまま入って食事をとり昼寝もできる。プライベート空間なのだから二人ともしぶったけれど、一度無理をいって入らせてもらった。薪ストーブのじんわりと染み込むような暖かさよ。必要が生み出したなんとも快適な小部屋なのだった。
「ここの煙上がってると、みんな、いたのー?って入って来んの」とおかしそうに話す五十子さん。それ以来、私も煙が上がっているかを確かめるようになった。さすがに「いたの〜」とはいえなかったが。

五十子さんは地元に伝わる在来野菜「鬼首菜」の伝承にも熱心で、90歳近くまで、息子の一幸さんとともに自家採種と種まきを続けてこられた。嫁にきたとき仕込んでくれたおばあさんのやり方をみようみまねで始め、70年近く守り抜いてきたのだという。4年ほど前、台所に入り込んで、軽くゆがいて塩に漬け込む「ふすべ漬け」の漬け方を教わった。栽培種にはないカブの辛味を味わう即席漬けだ。

漬物を教わる機会をつくってくれたり、鬼首菜の種まきから刈り取りまでの一連の作業を教えてくれたのが息子の一幸さんである。敏幸さんが山の暮らしの入口を教えてくれたとしたら、一幸さんは実際の作業に招き入れて地域を教えてくれた人だ。私は集落の男衆に混ぜてもらって広大な高原に火をつける野火つけに参加して炎の中を走り回り、ロープをつたって峡谷に降り雪で傷んだ河川の改修と隧道の掃除を体験する機会を得た。小学校の運動会となれば子どものいない家も草刈りに出向き、校庭の桜の手入れまですることを一幸さんの話を通して知った。地域の共同体があるから暮らしと生産が維持できることを、生活の内側からささやかではあるけれど体験をとおして知ることができたのだった。

敏幸さんが亡くなったことは、2015年11月のこの『水牛』に「古老のことば」として書いた。その後も何度かお邪魔して話を聞いていたのだが、昨年9月に五十子さんが亡くなられ、まだ一周忌を迎えないこの8月に、突然、一幸さんが逝ってしまった。私に東北の山間地の暮らしがどんなものかを教え、その原像をつくってくれたといってもいい3人がいなくなり、いまは山の暮らしを考える足場が失われたような思いがしている。私にとっては大切なフィールドである鬼首という地域との具体的なつながりを、これからどうつくっていけばいいのだろう。

語り部であった父と、在来野菜を守りぬいた母の存在があったからこそ、息子の一幸さんも、この土地の価値を十分に知り、よそ者の私に地域の文化を伝えようとしていたのだ、とあらためて思う。野火つけのあとは恒例で高原に円座をつくりお弁当を広げ酒を回すのだったが、鬼首のシンボルでもある禿岳(かむろだけ)が、「山笑う」の季語そのままに微笑みはじめる時期で、「きれいでしょう?」と誇らしかった一幸さんの口ぶりを思い出す。
友人と二人で訪ねたときは、屋敷裏の小川で「いくらでも取っていい」といわれ、野芹をどっさりいただいてきたこともあった。山菜を送ってくれたり、いただいたものは数しれない。森におおわれ、季節季節の花が咲き、実りをもたらす土地の豊かさを、おそらく両親以上に知る人だったのだ。

遠く離れた仙台にいて、人気の消えたしんと静まった家を想像する。朝日が上り日が当たるガラス窓や、満月に照らされる玄関を想像する。前庭では敏幸さんが植えたアケビがもうすぐ実をつけるだろう。裏庭では来春になれば、タラの芽と行者ニンニクがいっせいに芽吹くはずだ。裏山から湧き出す水を引いていた水屋の水槽は、今日も豊かな湧き水で満たされているのだろうか。そして、8月の鬼首菜の種まきはどうしたのだろう。一幸さんの田植えした田んぼの稲刈りは、代わりに何人かでやるといっていたけれど。もう、あの小部屋に煙が上がることはないのだろうか。
静まる家の映像がぬぐえない。私の耳底には、民話の語りも、ユーモアのにじむ話も、春山の美しさを話す声もまだまだ響いているというのに。