3月15日
結構、迷ったけど結局バスラに行くことにした。明け方、飛行場に迎えに来たガイドは、調子よくハグしてくる。円安と燃油サーチャージが急騰し、ここから先はケチりまくるツアーになるから「よろしくね」というとバスラの市内を通り過ぎて、彼の暮らすズバイルという町まで連れて来てくれた。これといった古い風情のある建物があるわけでもなく、雑な街並みは、薄汚くてゴミが反乱している。粗末なアパートがホテルだという。チェックインしていると、いきなり警察官だという男が話しかけてきた。何か尋問されるのかと思ったが、客として泊っているらしい。研修のためなのか2階を彼らが占領していたので、僕は3階の部屋をあてがわれた。夜になると彼らが戻ってきて廊下は彼らが脱いだブーツで一杯になっていて、牢屋に入れられているかのような妄想を楽しませてくれるが、汚いホテルだった。
イラク戦争から20年だ。会いたい人がいる。いろいろ面倒を見てやったがんの子ども達もそうだ。
1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍は劣化ウラン弾という砲弾を使用した。こいつは、ウランを濃縮した後の残りかすのウランを固めたもので、発射されると鋭い矢が飛んでいく。硬いから、戦車の装甲も簡単に突きさす。めり込む時の摩擦熱で、火花が出て、戦車を簡単に爆破させてしまう。しかし、劣化ウランは放射能出すから、微粒子が体の中に入ってしまうと白血病などのがんに罹ってしまう。
2003年も米軍は、劣化ウラン弾を使った。「安全な量しか使っていない」というが、一体どれくらい使ったか、どこに使ったかは、「言わない」のである。特にバスラでは、多くの劣化ウラン弾が使われたと言われて、破壊された戦車が放置してあった。「戦車の墓場」とも呼ばれていたのだ。初めてバスラに来たときには、このあたりが放射能で汚染されているのか?と思うだけで不安な気持ちでいっぱいになった。僕たちは恐る恐る破壊された戦車の横を通り過ぎる。子どもたちは、そんなことはお構いなしに戦車の中で遊んでいた。「あぶないよ」と言っても言葉は通じないし、これ以上は近づきたくはなかった。
しばらくすると、イラクは内戦状態になってしまい、僕たちはイラク国内に入る事すらできなくなってしまった。日本では、劣化ウラン弾への関心が高く、放射能の影響でがんが増えているという報道もあり、抗がん剤を子どもたちに届けてほしいと寄付する人たちがたくさんいた。そこで僕たちはヨルダンに事務所を構えることにしたのだ。そんな時に、バスラから避難してきていたイブラヒムという男に出会ったのだ。この男は、妻を白血病で失い、幼い子供を3人も抱えて途方に暮れていた。ちょうどいい、バスラに行ったり来たりしてもらい薬の運び屋をやってもらうことにした。なんだかそういう風に言うと怪しいことに手を染めているように聞こえるだろう。イラクにはやばい連中がたくさんいて、高価な薬だとわかると盗まれ、闇で転売されてしまうから、極力目立たないように、古着の中に忍ばせたりと苦心した。
ある日、イブラヒムは薬を届けてバスラから帰ってくると嬉しそうに「がんの子どもたちに絵をかかせてみたんだ」という。イブラヒムには全く絵心はなかったが、がんの子どもたちの人気者になったらしく、子どもたちはイブラヒムのためにたくさんの絵を描いたという。
そんな中で、忘れられない絵があった。サインペンで描かれた絵は線が躍動していた。
「これは?」
「サブリーンという11歳の少女がおりまして、まだサダム・フセイン大統領が健在だったころ、お父さんは、兵役から逃れていたのを捕まり、牢屋に入れられました。こいつはいけないやつだということで、耳をそがれたのであります。するとそこから感染症になり、お父さん、獄中で死んでしまった。少女がまだ1歳の時のこと。お母さんは大変だ。女手一つで生活は成り立たない。それで、お母さんは、再婚したというわけですが、ところが、新しい亭主、こいつがまた、定職につけず、貧乏でとてもじゃないがサブリーンを学校に行かすお金もない。まあ、12、13くらいになれば早めに嫁に出してしまおうと考えていたのだろうが、ところがサブリーンは癌になってしまった。サブリーンが病院に来た時にはもう右目は腫れあがり、摘出するしかなかった。お父さんは、相変わらず仕事がなくいつもイライラしてサブリーンをしかりつける始末。なんというかわいそうなお話し、何とかしてください」
ということで僕は彼女の絵の虜になり支援をはじめたのだ。
サブリーンは、がんになったことでみんなに迷惑をかけていると嘆いていた。どうせすべては手遅れだということも知っている。病院に行ってもお金がかかりみんなに迷惑をかけるだけだと。どうせ死ぬんだからもう病院には行かないと言ってこなくなってしまった。しかし、そうは問屋が卸さない。僕はと言えば、彼女が今度はどんな絵を描いてくれるんだろうかと楽しみにしていたからだ。
そんな僕の思いが通じてサブリーンは病院に戻ってきて、また絵を描いた。僕はうれしくなってみんなにサブリーンの絵を見せてまわった。サブリーンの描いた絵のファンも増えてお金も集まるようになり、病院に薬を届けることができた。サブリーンのおかげで他の患者たちの薬も買うことができた。彼女は生きていることの意味をしっかりと感じることができたのだろう。しかし、病気は進行していった。もう目も見えなくなって、彼女は「ありがとう、幸せでした」と言って死んでいった。
その話はどんどん膨らんでいった。ある人は、講演会で「サブリーンが死ぬ前に、私に手紙を書いてくれたんです」と言いって涙を誘い、募金を集めてくれた。
「どうだい? みんなこの話をするとお金をたくさん寄付してくれるんだ」と自慢げだった。ただ、サブリーンは目が見えなくなっていたから、手紙なんか書ける状態ではなかった。その人の話し方がうまくて僕も感動したぐらいだ。なんだか、人をだましているようでどうも釈然としなかった。
サブリーンに会いたくなった。でも彼女は天国にいる。そこで、サブリーンのお母さんに会いに行くことにした。ガイドに頼んでサブリーンの家を探す。2013年にお母さんを訪ねたことがあり大体の道は覚えていた。彼女たちの住んでいる貧困地区には鉄くずなどの資源ごみが集められて、そういうのを売買している人たちが暮らしていた。おそらくその中には劣化ウラン弾の放射能で汚染された鉄くずなども混ざっていたのかもしれなかった。
バスラも最近ではモールができて、65000人が収容できるサッカースタジアムもある。ここにきてようやく復興が進みだしたが、貧困地区の開発は絶望的だ。サブリーンの家の周辺は全く変わっていない。家の前の空き地は、ゴミ捨て場になっており、ごみの回収はいつ行われているのか全く分からないような状態で悪臭が漂う。ただ、以前は、治安の問題から日本人であることを知られないように、隠れるように移動していたので生きた心地がしなかったが、今はそんなことはなく、堂々と道を歩ける。これは大きな進歩だ。
お母さんが扉を開けて家の中に入れてくれた。家で小さな雑貨も売っていて、近所の子どもたちがお菓子を買いにやってくる。サブリーンの弟は結婚して子どもができたばかり。妹たちはというと大学に行っているという。そのうちの一人のファーティマは、成績が優秀で私立の大学に奨学金を貰って通っていて、薬学を勉強していた。サブリーンは学校にまともにいくことはなく、がんになって初めて院内学級でいろんなことを学んでいった。妹の世代は、貧しくても、チャンスがある。「戦争がない状態」は、若者達に未来を与える。日本だと当たり前のこと。イラクは20年経ってようやくそういう段階に来たんだ。そう思うとなんだかとてもうれしくなった。
10月16日は、サブリーンの命日なのである。未だに彼女のことを思いだすだけで何か勇気をもらえるのだ。