狂った季節 ガザとヒロシマ

さとうまき

今年の夏は暑かった。庭の木が伸び放題になってしまっていた。とうとう二階の屋根まで達していた。隣人に迷惑をかけまいと春先にある程度の剪定はしたはずだった。しかし、ものすごい勢いで枝が伸びている。隣の家の柿の木も同じように伸びていたからこの気候変動の影響なのだろう。生垣のつつじですらまるで違う食物のように枝が伸びだしている。剪定しなければとは思いつつもあまりの暑さにそのままになっていたのだがさすがに隣人から苦情が来た。
「お宅の枝が伸びていて、落ち葉が落ちると雨どいに詰まるから、何とかしてくれないと困るんだよ」
申し訳ないという気持ちと、隣人との共存のためにひたすら頭を下げるしかなかった。

イスラエルのガザ攻撃がはじまって2週間がたっていた。イスラエルに自衛権はある。しかし、ガザの子どもを3000人殺す権利はない。パレスチナにかかわっている友人たちも精神的に疲弊している。僕はほとんど気力をなくしていたが、重い腰を上げざるを得ず、そのためにもパレスチナを象徴する白黒のカフィーヤを頭に巻いて、右手にはチェーンソーを持ち、行く手を阻む木々を倒していった。「伸びきった枝を切るのか、根こそぎ切り倒すのか」ともかく僕は格闘しなければならなかった。生きるために。

25年前、エルサレムのヘブライ大学のトルーマン研究所に行った時に、トルーマン大統領の功績を示した写真パネルが飾られていた。イスラエルという国を真っ先に承認したことにならび、原爆投下の写真が飾ってあった。「広島、長崎に原爆を投下したことで、戦争を終わらせ、多くのアメリカ人の命を守った」というようなことが書かれていた。そこには、ヒバクシャや死んでしまった20万人の人々のことは一言も触れられていなかった。我々日本人は原爆のことをしっかりと伝えていかないといけないと思い、原爆写真展と映画上映、パレスチナの子どもたちと創作ダンスや朗読会などを3年間やった。イスラエルの子どもたちをどう巻き込むかが次の課題だったが、2002年にイスラエルを追放され、僕の仕事はそこで終わってしまった。

2012年、ギラッド・シャロンは「イスラエルは、ガザを更地にしなければいけない。アメリカは広島で日本は降伏しなかったから、長崎でも原爆を投下したように」と言っていた。今回のガザ攻撃では、イスラエルは原爆を使わなくてもそれに近い破壊をする覚悟がある。

この夏、僕はイスラエル人の若者を広島に連れて行った。広島に行く予算はないと言われたし、広島は暑い。それでも何とか説得した。広島を見た若者たちが、シャロンのように思うか、「ノーモア、ヒロシマ」を叫ぶのか、真価が問われている。

ガザの解説はこちら
https://youtu.be/wCqT81pt6wo