話の話 第8話:まぎらわしい

戸田昌子

最近、近所に小さな古書店ができた。車がめったに入ってこない路地裏の散策路であるためか、子ども向けの絵本が入り口に置いてあって、奥には読み物が置かれている。入り口のラックには、ここ数日間「うきわねこ」という絵本が面陳されている。わたしはそれを見るたび「うわきねこ」と空目してしまう。もしかしたら著者はこの空目をむしろ期待して、こんなまぎらわしいタイトルをつけたのではなかろうか、と疑ってしまうほどに、毎度、空目してしまう。もうすでに5回目である。この空目は、たとえば「このどろぼう猫!」という慣用句にあるように、奔放だったり、ふらっといなくなったりするような猫のイメージのせいではないだろうか。それとも、空目してしまうわたしのほうが、もしかして浮気性なのだろうか。そんなことをいちいち考えさせられ、かつ自分を反省してしまうような迷惑な面陳なので、早く売れてほしいと切に願っている。それとも私が買ってしまえばいいのだろうか。ここのところの小さな悩み事である。

目を使う仕事であるため、年齢とともに目が衰え、空目の回数は以前より増えた。「梅しそかつお」を「悔しそかつお」に空目してしまったり、「シンデレラ」を「ツンデレラ」と空目してしまったり。「わけぎ」が「わきげ」に見えてしまったり、「おみやげ」が「もみあげ」になってしまったり。「靴下」を「陛下」と空目してしまったときには、「何の関係もないのに、意外に似ている……」と思ってしまった。英文の校正をしていて「Harikomi Nikki」(張り込み日記)を「Harakiri Nikki」(腹切日記)に空目してしまったときは、「どちらもなんだか日本ぽいなぁ」と感心した。ちなみにこの「張り込み日記」というのは、写真家の渡部雄吉(1924-1993)によるフォトストーリーで、雑誌『日本』(大日本雄弁会講談社)の1958年6月号に掲載されたものだ。とある刑事が、コロシ(殺人)のホシ(容疑者)を追って、ヤサ(家)をガサ入れ(捜索)する捜査の流れを追ったものだが、演出過剰にも見える刑事ドラマ風のフォトストーリーは時代がかっている。この写真は近年、とある古書店から外国のコレクターの手に渡り、フランスで出版されたことをきっかけに再評価が進んでいる。しかしそれにしても、Harikomiは日記になるが、Harakiriは日記になりようがない。

まぎらわしいと言えば、麦茶とコーヒーは、どこか似ている。麦茶と薄いコーヒーは色がまず似ているし、少し焦げたような香りがするという点も、ちょっと似ている(反論は許容する)。そういえば、あまりおいしくない麦茶にはインスタントコーヒーを少しだけ入れると味が良くなる、という話を聞いたことがある。コクの少ないカレーにチョコレートを少し入れるとまろやかなコクが出る、というのと似たような感じだろうか。ともあれ、私の母は昔からコーヒー好きで、よくコーヒーをドリップしていた。しかし、一度ドリップしただけでは豆がもったいないと思うのか、一杯めをドリップしたのち、出涸らしをさらにドリップして、ガラスコップに入れっぱなしにしておく、という習慣があった。その薄いコーヒーにお砂糖と牛乳を入れてコーヒー牛乳を作って飲むのがお気に入りだった小学生のころの私は、ある日、学校から帰って一人だったときに、いつものように出涸らしでコーヒー牛乳を作っていた。しかしひとくち飲んでみたところ、なんだか味が変である。もしかしてこれはコーヒーでなく、麦茶だったのではないだろうか、という疑いが芽生えた。しかし、すでに牛乳も砂糖も入れてしまったので、捨てるのはもったいないし、どうしよう、と考えこんでいたところに、弟が家に帰ってきた。こころみに「これ飲む?」と尋ねてみたら、「飲む!」と即答するので、コップを渡すとそのまま受け取って、ごくごくと飲み干してしまった。途中で気づくだろうと思いながらそれをじっと見守っていたわたしだったが、飲み終わったあと弟は「おいしかった!ありがとう!」と元気よくのたもうた。もう飲んでしまった後だし、真実は明かさなくてもよいか、と思いながらもやはり正直さが肝要かと思い、「それね、コーヒー牛乳じゃなくて麦茶牛乳なんだ」と言ってみた。驚愕する弟。「わからなかった?」と尋ねると「うん、わからなかったよ!麦茶なの?えー!」と言う。人を疑うことを知らない素直な弟を騙したのは悪かったと反省しつつ、ひとくち飲んで「味が変」と気づかなかった彼が悪い……と心の中で言い訳をした。とくに恨まれることはなく、弟はとてもいい子であった。

世の中には、まぎらわしいがゆえに誤用される言葉がたくさんある。たとえば「追撃」。そもそもの意味は「追い討ち」と同じで、勝っている側がさらに相手を叩きのめす、といったような意味なのだが、この10年ほど、「反撃」の意味で使われているのをよく見かける。さらに似たような事例に「鳥肌」がある。これはもとはと言えば「怖い」「おぞましい」などのネガティブな意味で使われる表現だったはずなのだが、最近では「鳥肌もの」というような形で使われ、「すごい」「かっこいい」といった意味になりつつある。誤用の定着というやつである。そうした誤用の典型が「こだわり」という言葉だろう。もとはと言えばこれは「執着する」というような、よくないイメージの言葉だったのが、最近では「こだわりの逸品」というような、ポジティブな用法が定着してきている。かつて日本語教師の母が「こだわりは捨てるものよ!持つものじゃない!」と繰り返していたため、私はこの誤用が今でも使えないままである。しかし誤用も文化なので、あまり目くじらを立てないようにしよう、と思ってもいるが、ときどき考え込んでしまうこともある。たとえば先日、わたしより一世代若い人に「ぼくは世間ズレしているので」と言われて首を捻ってしまった。つい気になって「あの~、世間ズレっていうのは、世間知があるってことですよね?」と言ってみたら、「世間知」が通用しなかったのでさらに話が通じず、話は有耶無耶になった。あとで調べ直してみたが、やはり「世間ズレ」というのは世間のことをよく知っていている、という意味で、自分が世の中からずれているという意味ではないことが確認できた。しかしその彼は「世間ズレ」を表現したデザインの名刺まで作ってばら撒いているので、これはやはり、わざわざ突っ込まなくて良かったな……と安堵した次第。

まぎらわしいと言えば、「半」のつく表現は、本当に半分かどうかが、かなりまぎらわしい。たとえば「半グレ」という言葉がある。これは暴力団に所属せずに犯罪を行う集団のことをさす言葉らしいが、わたしの印象では「半分グレている」と言うよりかは「相当グレている」という感じがする。とどのつまりはただの犯罪者で、「半分」どころではなくグレているのである。この「半分どころではない」というのは、さまざまな事例がある。たとえば「半狂乱」。これは半分どころか「かなりイカれている」と言えるし、「半信半疑」はまじで疑いまくりである。「半殺し」はだいぶ死にかけだし、「半裸」はほとんど脱いでいる。「なんでなのかなぁ、半人前はけっこういい感じなのに」とは、娘の言である。

「まぎらわしい」と言えばなにかある?と夫に尋ねたら、「113系と115系はまぎらわしいよ」という返事が返ってきた。しかしまぎらわしいどころか、わたしにはそもそもなんのことだかさっぱりわからない。「どこがどう、まぎらわしいのよ?」と尋ねると、「えーとね、見た目がちょっと違う」という返事。「いや、だから、どこがどう、まぎらわしいのよ?」と重ねて尋ねると、「んー、機能がちょっと違う」と返ってきた。いくら尋ねても、なにが似ていて、なにが違うのかがはっきりしない。結局のところ、そのまぎらわしさの程度は、わからずじまいであった。

フランス語話者が日本語の「ありがとう」を覚える方法のひとつに、「ありがとう」と音がよく似たフランス語の「アリゲーター」という語を利用して覚える、というのがある。アリゲーターはワニのことだが、フランス語では「ありがとぅふ」という発音に近い。そのためフランス語話者が「アリゲーターございました」と言うと日本語話者には「ありがとうございました」に聞こえる。ある時、フランス人の知人がそれを覚えようとがんばって、頭のなかでワニをイメージしながら「ワニございましたワニございました」と練習を繰り返した。しかしいつのまにやらそのワニが「アリゲーター」から「クロコダイル」に変換されてしまっていたらしく、実際に言う段になったときに彼が口にしたのが「クロコダイルございました!」。クロコダイルは、ワニはワニでもちょっと大きめのワニ。言われた方は何がなんだか、さっぱりだったことだろう。日本語ではアリゲーターもクロコダイルもどちらも「ワニ」なので、まぎらわしいどころか、違いはぜんぜんない。

ワニと言えば、「ワニの涙」という慣用句がフランスにはあるそうだ。「嘘泣き」を意味する慣用句だが、そんな言葉が生まれたのは、ワニが捕食をするときに涙を流すからだと言われている。生きた獲物を捕食するのに、食べるのがかわいそうだとワニが泣く……わけはない。本当の涙か、嘘泣きか。これは、まぎらわしくない。

まぎらわしさが商業的に利用されるケースも多い。たとえば東京ディズニーランドが千葉県浦安市舞浜にあるのは有名な話だが、東京ドイツ村は千葉県袖ケ浦市にある。なぜ、浦安ネズミーランドとか、千葉ドイツ村ではいけないのか。しかしこれ以上言うと東京住みのスノッブ発言になりかねないので、深掘りはやめておく。他に商業的に利用されているまぎらわしさの例としては、「手揚げ風あぶらあげ」などもある。決して嘘は書いていないのだが、パッと見には「手揚げかな?」と思わされてしまう、あれである。商業的なまぎらわしさは、人の期待感にそっと寄り添う形で利用されることが多いようである。

ある日、鳩尾がスーパーできゅうりを買ってきた。「朝採りきゅうり」と書いてあったので、てっきりその日の朝に摘み取られたきゅうりだと思い込んだ鳩尾は、ルンルンと包丁の刃を入れた。しかしそのきゅうりはなんだか古い感じで、とてもその日の朝に採られたとは思えない。「なるほど”朝”とは書いてあるが”今朝”とは書いてないね……」と不意に気づく鳩尾。たしかに、それは、騙されちゃうね。