おジイの眉毛

篠原恒木

おジイになると、アタマの毛が抜ける。さびしい。ゆえにハゲ隠しのため丸坊主にしている。
少なくなった頭髪を伸ばして、禿げた部分へと強引に梳かしつけているヒトを見かけるが、あれは無駄な抵抗だ。そよそよと風が吹くと、目も当てられない状態になっている。未練なのは理解できるが、きれいさっぱりバリカンなどで剃ってしまうことをお勧めする。

肝心のアタマの毛は生えてこないのだが、おジイは生えなくてもいい毛が生えてくる。
まず耳の毛だ。極端なケースからいこう。耳の中からボーボーと生えていて、そのままにしているおジイがいるが、あれはご本人にとってみれば、さほどのモンダイではないのだろうか。
「参ったなぁ、気が付いたらこんなに耳毛が大量発生していて」
と悩んでいるのか、それとも
「これも貫禄じゃ。かんらかんら」
という心境なのか。
訊くわけにもいかないので黙っているが、あれほど大量の毛が、ある日突然耳の中から急に生えてきたとは考えにくい。初期段階では一本、そして二本、やがて数年の時を経て立派に群生、つまりはボーボーという流れなのではないだろうか。年月をかけて丹精に育てていたのか。いやしかし、あの耳毛はやはり「早期発見、早期除去」を促したいところだ。

おれの耳毛は情けない。気が付くと、耳たぶおよび耳の付け根あたりから一本ないし二本が力なく伸びている。発見するとただちに抜くのだが、定期点検を怠ると、また一本成長して平均全長八ミリ、最長記録十五ミリという塩梅だ。思えば若い頃はこんな毛は生えなかった。加齢のせいだろう。

鼻毛も厄介だが、あれも耳毛と同じで定期点検、早期発見が肝要だ。おジイはただでさえ不潔な存在なので、目立つ耳毛および鼻毛はお手入れ、いや思い切って抜いてしまうことにしている。これを「抜本」的解決法と呼ぶのは論を俟たない。

耳毛、鼻毛は自力で処理できるが、自分ではなかなか難しいのが眉毛だ。
おジイは眉毛も無駄に伸びる。若い頃はまったく気にしていなかったが、トシをとるとなぜか眉毛が伸びてくる。ある時、両目の視界の端に細い異物が見え隠れしているのに気付いたら、自分の眉毛だった。伸びた眉毛が垂れ下がり、オノレの視界にまで侵入してきたのだ。これはよくないと思い、小さな鋏でチョキチョキしてやった。抜くのは痛そうだからね。しかしおれは視力が弱いので、眼鏡を外すと鏡に映った自分の顔がよく見えない。したがってどのあたりの眉毛をカットすればいいのか、それが非常に心もとない。カットしすぎたら大惨事になりかねない。おジイのヤンキー眉だけは見るに堪えないではないか。だから恐る恐る控えめに、明らかに伸びているであろうと思われる眉毛だけを数本だけカットする。だが、これだけでは抜本的解決には至らない。すぐまた余分と思われる眉毛が垂れ下がってくる。

おれは思い切ってメンズ専門の眉毛サロンへ行くことにした。
こう見えておれは爪切り、および甘皮処理、コーティングもネイルサロンで三週間に一回の割合で施術してもらっているので、眉毛サロンへ行くのにもさほどの抵抗はなかった。不安だったのは「すっかり整えました」と言わんばかりの不自然な加工的デザイン眉にされたらどうしよう、という点だけだった。イヤだよ、顔が老けているのに、眉毛だけホストのおにいさんのようなかたちなのは。

サロンは客も施術者も若いコばかりだった。
「若者は美意識が高いのだなぁ」
と感心していると、おれを担当してくれる施術者が現れた。若い女性である。いいではないか。おれの眉毛はよその男のために整えるわけではない。女性からどう見られるか。これが重要だ。
「いいトシしてバッカじゃない」
と言いたい奴は一歩前に出てから言え。おジイになっても男なんてそんなもんだよ。世の中が男しかいなかったら、おれは毎日パジャマのまま出勤するよ。
若い女性の施術者はさっそくおれの眉を観察してカウンセリングを始めた。
「何かご予定があって、眉毛を整えたいと思われたのですか?」
ははあ、このサロンへやって来る若い男子は、きっと大切なデート、合コンを間近に控えて、その勝負に臨むために眉を整えるわけなのだな。健気ではないか。おれは質問に答えた。
「いえ、何も予定はないのですが、垂れ下がった眉毛が自分の視界に入って来て、これはどうにかしなくちゃなるめぇと、こう思ったわけでして、ハイ」
「なるほど」
施術者はおれの眉を小さな櫛で梳かしながら言った。
「お客さまは目尻部分の眉の毛量が増えてしまっていて、それが下へ下へと垂れている状態で、いわゆる下がり眉になっています」
「下がり眉」
おれは思わず復唱してしまった。なんと間の抜けた響きだろう。下がり眉。「昇り龍のお銀」なら威勢がよさそうだが「下がり眉のお篠」はショボクレている。下がり眉。だが、施術者は傷ついたおれのココロには気付かず、こう続けた。
「どのような印象を与える眉にしたいか、何かイメージはございますか?」
「印象、イメージ……」
下がり眉のダメージから回復していないおれは激しく戸惑った。眉によってヒトにどんな印象を与えたいのか、などと考えたこともなかったし、おれにとって理想の眉のイメージとは何ぞやと思いをはせたこともない。即答できるわけがなかった。絶句しているおジイに、若い女性施術者は言った。
「たとえば優しい印象に、ですとか、仕事ができるビジネスマン風に、ですとか、包容力のある印象に、ですとか」
困ったことになった。おれは三択から答えを選ばずに、モゴモゴと呟いた。
「えと、あの、その下がり眉を直していただいて、なるべく自然に……」
施術者は男性のさまざまな顔がイラストで描かれているシートをおれに見せて、説明を開始した。水平な眉、鋭角な眉、そして眉の太さ、角度、輪郭がイラストによってさまざまに描き分けられている。おれはざっとそれらの顔をみたが、イラストの男性はあまりにもイケメンで、おれの顔の造作とは似ても似つかない。
「これがいいのだ」
と、ひとつの顔を指差したところでそのイケメン・イラストの顔になれるわけがないという事実はバカなおれでもわかる。だいいちイラストの男性はすべて髪の毛がフサフサだ。当たり前だが、丸坊主の顔はひとつとしてない。
「下がり眉を直してください。下がり眉だと間抜けですよね。その間抜けさをいくぶんキリッとさせていただき、でも細眉にはせずに、さりげなく自然な感じで」
必死にオノレの願望を言語化しながら、どうやらおれはなんとかして「下がり眉」から抜け出したいと切望しているということに気が付いた。下がり眉。
「かしこまりました。では眉のラインを水平に近づけてナチュラルに眉山を整え、眉の下に生えている余分な毛を剃って仕上げていきます」

それからスマートフォンで写真を撮られ、目を閉じてくださいと言われ、何かを眉に当てられ、しばらく時間が経過した。目をひらくといつの間にかおれの眉にガイドラインのような白い線が引かれていた。どうやら定規のようなプレートをあてながら「この範囲内でなんとかする。ラインの範囲外の毛は剃ってしまう」という結論を導き出したらしい。定規を使ったのは左右対称にするためなのだろう。
施術者はおれに手鏡を持たせて「これでよろしければ施術に入ります」と優しく言ってくれたのだが、眼鏡をかけていないので眉のかたちがよくワカラナイ。
「はい、お任せします」
こうなりゃ俎板の上の鯉だ。どうせまた生えてくらぁ。

施術はあっという間に終わった。再び目を閉じるようにと言われ、ジージーというシェーバーらしき音と、チョキチョキという鋏の音が聞こえたが、十分もかからなかったはずだ。最後に眉の部分をウェットティッシュのようなもので拭かれて、
「目をあけてください。あけたお顔で仕上げ、微調整を行ないます」
と言われ、またチョキチョキされた。
「いかがでしょうか」
手鏡を渡されたが、裸眼ではやはりおれの顔はおぼろげだ。でもぼんやりとだが、なんとなく眉尻がスッキリして凛々しくなったようにも思える。
「素晴らしいと思います」
そうおれは応えた。そう言うしかないじゃんね。
「二週間ほどすると、またかたちが崩れてきます」
そうなのか。
「二週間で下がり眉に逆戻りですか」
「いえいえ、もちろん二週間で今までのような状態に戻ることはありませんが、だいたい二週間ごとにメンテナンスをしていただくことをお勧めします」
言われるままに二週間後に再訪の予約をした。おカネがかかるなぁ。おれは眉を曇らせてサロンをあとにした。

会社内の女性たちには、眉の変化をいっさい気付かれることはなかった。そりゃそうだ、誰もおジイの顔など凝視する女性はいない。許そう。現実は許容しなければならない。

帰宅して眼鏡をとって、ツマに顔を見せた。
いくらなんでもツマならおれが眉目秀麗に変身したことがわかるだろう。ご不満は多々あるかと存じますが、なにしろ毎日顔を突き合わせているのだからね。
「昨日までのおれと何か変わったことに気付きましたか?」
ツマはおれの顔を凝視して言った。
「ハゲた?」
おれは眉をひそめた。