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過去を名づける 『青い眼がほしい』トニ・モリスン 「女たちの同時代」と名づけて、全七巻の現代北アメリカ黒人女性作家の作品をまとめて出すことになった。七巻という数字に魔術的な理由はない。十五巻や二十巻のほうがいい。けれどもいま可能なのは七巻である。作品が不足しているからではない。この七巻は現代の北アメリカの黒人女性作家の究極的プロフィール、決定的シリーズともいえない。できるかぎり、同時代の黒人女性作家の息遣いの感じられるような選びかたをしたいと思ったが、入れたくても入れることのできなかった作家や作品も多い。 わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う。……貧困のどん底にあるような黒人たちのこころを占めたのは物質への欲求ではなく、何かべつのことだった。多くの黒人にとって、名づけようもないもの。指さして示して、ほらこれだ、ということができないもの。けれども、とにかく、わたしたちにはある種べつの知性を理解する能力がある。 そして、白人とほとんど変わらぬように白い膚をしたひとりの黒人女性は次のように語った―― 断言するけど、あたしは黒人なの。なぜ自分は黒人だといわずに、白人として通してしまわないのか、とたずねる白人もいる。黒人であるとは、精神的な範疇であり、心理的な範疇であり、同時に社会的事実だということが、そういう人には全く理解できていないわけよ。 また、トニ・モリスンは「黒人の文化遺産を、精神の遺産を守れ。われわれがアメリカにおける異族であるなら、異族であり続けよう、それを諦めてしまうことは、われわれの存在の根を根こそぎにすることだ。そのようなことがあっていいのか」と問う。 七巻の選集には荷が勝ちすぎる希望であるかもしれない。いずれにせよ、七巻ひとまとめにして送り出しても、巻ごとに訳者の解説をつけただけではどうにもならない。そこで七巻の作家たちを、にほんの同時代の、書くことを仕事に、あるいは仕事の一つにしている女たちはどう読むのか、それを語ってもらおうときめた。それが各巻についている書きおろしのエッセイである。こうしたエッセイを加えることで、ひとつのまじわりを試みたかった。「女たちの同時代」と名づけたいきさつには、そのような期待があった。 2 北アメリカの黒人女性は、いま同時代の黒人女性作家たちに、どのような期待と関心を持っているのだろうか。作家たちの思想と同時に、読む者たちの関心の軸がどのような性格を持つのか、それを知りたいと思った。彼女らの関心を直截に表しているとわたしが感じたのは、『真夜中の鳥たち――現代黒人女性作家選』一巻のアンソロジーの序文に、編者メアリ・ヘレン・ワシントンが記している言葉だった。 黒人女性の伝説を語り、夢で神話を織って、わたしたちの過去を回復し、過去を名づけることを可能にすること。 彼女らはこれまで、彼女らの伝説は語られていないと感じ、過去は回復されず名づけられてもいない、と感じてきた。ステロタイプ化されたイメジに深い傷を受けてきた。黒人女性はいわく、「なにものにもめげず、おそろしく強い」とか、「善悪の区別もつけぬ、野放図な者たち」とか、「すべてを犠牲にしてやまぬ聖母《マドンナ》」である、とか。(モリスンの『鳥を連れてきた女』Sulaでは、女主人公のスーラは一つの悪として描かれ、悪の目的はそれを生きのびることである、と作者は明確に書いている。村の人たちはスーラの行動を理解しない。異端者である。ところが人びとは、モリスンは黒人女性の典型を描いたといちはやく消化してしまった。ステロタイプを現実ととり違え、小説の主人公を作者はすばらしいヒロインだと称えているのだと直線的に誤解した。) ペンを執る者たちのほとんどすべてによってそのイメジを管理され歪められてきた女たちが、すなわちかつて「この世のらば」と呼ばれた女たちが、自らの手で真新しい自己像を選びとった――おおはんごう草の勇気と弾力性、そして不可思議な真夜中の鳥たちの渇望といらだちである。 これは女たちの生をめぐる歴史の書き直しである。未来へのヴィジョンのつくり直しである。その意味で、個的な体験も集団的な経験に止揚されうるふりはばを持ち、埋もれていた記憶や営為に名が与えられる。個体によって意識されてきた生の連続性、知性の継承、意志の持続が明るみに出される。その経路を通って、それは集団的な意識として獲得しなおされる。このことをもっとも鋭く意識しているのは、アリス・ウォーカーではないだろうか。彼女の作品は一九六六年に初めて出版されたが、「わたしは黒人の女たちの抑圧と狂気と忠誠と、そして勝利を書く」と彼女は語った。短篇の『ハナ・ケムハフの復讐』について、あるインタビューで述べている言葉が、彼女の基本的な姿勢を表していると思う。 あの短篇で、わたしはわたしの先祖の何人かが生きたその生の歴史と心理の脈絡を拾い集めた。それを書き記しているときのわたしは、悦びと力とわたし自身の連続性を感じることができた。つまりたまに作家が経験することのできるあのすばらしい気分を味わうことができたのだった。多くの人びと、いにしえのたましいと共にいること。そして彼らはわたしが彼らの意見をただし、彼らの存在を感謝しているのを眺めてひどく満足そうだった。しかも彼らは彼らの存在があるかぎり、わたしは独りきりではないのだよと熱をこめて伝えてくれるのだった。 ウォーカーはこのようにして、個の現実から広がって集団的現実となるものを捉えなおそうとしてきた。物語の多くは母親から聞いた話が土台になっているという。 わたしたちの祖母や母たちは「聖人」ではありはしなかった。「芸術家」たちだったのである。解き放たれることのない創造性の湧き水によって、感覚の麻痺した狂気へ、血を流す狂気へと追い込まれ。彼女らは創造する者だちだったが、精神の浪費を生きた。なぜなら彼女らは驚異的にゆたかな精神を持った者たちであったのだから。使われることもなく、また求められることもなかった才能を耐えることの緊張が彼女らを狂気へと追いやった。精神を棄て去ることは、労働に疲れはて、その性を踏みにじられた肉体が、そのたましいの重量を担えるようにと、軽くしてやるための痛ましいこころみだったのである。(『われらの母たちの庭を探して』) 3 だれもがアリス・ウォーカーと同質の表現で語るわけではない。けれどもだれもが連続を鋭く意識している。だれもが集団的な固有性を、想像力を、価値観を感じている。当然、たえず変質の危機や過程もあるものとして、あるいは再生と回復の可能性をそなえ持ったものとして。そのような意識が『青い眼がほしい』の作者トニ・モリスンの物語る背景にもある。 モリスンにあったのは、五月のニューヨークだった。わたしはニューヨーク市から六〇〇キロほど北のイサカという人口三万の小さな町に住んでいた。イサカではだいたい赤児の世話で明け暮れ、家を出る間際までばたばたと襁褓など替えていて、きわめて小さな飛行場の飛行機に文字通りとび乗るようにして、しばらくぶりでニューヨークへ向かった。その日は蒸し暑くて、ひどく汗が流れ、ぱっとしない。暑さより、つい先刻までの小さな子どもとの時間と、イーストサイドのランダムハウス社でモリスンに会って話を聞くという時間の中間にいて、こころがうろうろしてしまう。会社に着くと、モリスンの秘書が、「ミズ・モリスン」は朝から三つとか四つのインタヴューをやって、最後のが述びているので、あなたに会うのは約束より遅れるだろう、悪しからず、という。そんなことなら、わたしの番がきたってうまくゆくものか。帰りたい。帰ってしまうふんぎりもつかず、そのまま待ったのだ。わたしの番になって、ふらふらと、案内してくれる女性の後から行ったのだが――。 ――『青い眼がほしい』は一章が秋で、終章が春になっているのですね。一つの周期がめぐり、ひとりの少女が廃人となって台所の塵芥の中に何かを探している場面と、めぐった周期の終わりが重なっている。あなたは土壌の不毛を描こうとし、そして語り手としてのあなたは「わたしたちが彼女を助けそこなった」という。『青い眼』は最初に出版された作品だったけれど、あなたはなによりもまず、この国の土壌の不毛を描くことをしたかったわけかしら。 モリスン そういう風に分析してみた記憶はないのだけれど、いまになってみると、一つの過程として必然的だったのだと思う。だれにとってもたいした意味を持たない人びとがいる、だれもその人たちの話を書かないし、考えてみることもない……若い黒人の娘たちのこと。でもね、わたしはわたしたちの人種を美化するために書こうなんていうつもりは毛頭なかった。そんなこと、きわめてつまらない。わたしたちのところには、どれほどすばらしいことがあるのかを書いてみせるなんて陳腐だと思う。それにね、黒人は非凡なのだから、何を書いたって平気だろう、と思った。脆くて弱々しい民族なら、ご機嫌を取ることも必要だろうけれど、そんな必要はないと。たぐいまれな不屈の精神、力、そして美しさをそなえた人びとだということはわかりきっているのだから、あるがままを語ってもかまわないと。でも、明らかに、わたしのその考えは間違っていたようなのね。 ――そうだったんですか。 モリスン わたしの物語は「否定的である」と評されることが多い。異様だとか、否定的だとか、中傷するものである……そう、黒人を傷つけると。 ――黒人のイメジを傷つける、ということですか。 モリスン こうだと思われたい、というイメジにとって有害だと。そういう態度は誤っていると思うの。イメジなんて紙っぺらのことでしょう、実質はないのよ。あたしはジェーンとディックのイメジを片方に置いて、それと対照的な人びと、なんともひどい人びとをその対照として描いた。ひどい人びとだが、わたしたちは理解しなければならない。チョリーを例にとればいい、チョリーのしたことよりひどいことをわたしは想像できない、自分の娘を強姦するよりひどいことを。けれどももしわたしにその力さえあれば、強姦という事件が起こる時点では、彼は実体的なひとりの人間として理解されることができるはずなのよね。そのほうが、家へ給料を運んでくる当たり前の父親を描いて、彼はすばらしい父親でしたよ、というよりずっと重要だと思う。すばらしい黒人の父親なんて無数にいる。でもそれはわたしの関心事ではない。わたしは人種差別主義がどのような影響をおよぼすものか、それを描きたかった。住居だとか食物だとかいうことは全く無関係なレベルで、それがどれほどの破壊力を発揮するのかを。人間の内側を殺してしまう。フリーダとクローディアの二人の姉妹のように強気でしかも疑り深くない者たちは崩壊してしまう。と同時に、そのような崩壊が起こるためには、やはり共謀者が必要だということ。あの黒人の少女があのような終末を迎えたことの中には、黒人たちの共謀があったのだと。村全体が……ね。 ――あなたがもう実際には会うことのできない人びとが、あなたに、わたしらのことを語れ、とせがむと感じますか。 モリスン 先祖たち。そう、わたしの場合は先祖たち。『ソロモンの歌』はそれだった。でもそれに限らず、いつも、過ぎた時のこと、かつてあった生のことを語りたい、わたしはその過ぎた時の一部でもある……。わたしがその期待に応えなければならない相手は、裏切ってはならない相手は、物語に登場する人びと。読者じゃない。このことはとりわけ強く感じていることなのね。 ――あなたは集団の記憶、集団の想像力、集団のものとしての経験にこだわる作家ですね。 モリスン だからわたしはアミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)に同意できない。彼は大好きだけれど、彼のようには書けない。やってみても、きっとうまくいかない。『ダッチマン』のような作品は存在すべきではない、とはいえないけれど、作品の機能が全く違う。『ダッチマン』は、そのような話について無知な人びとに説明してやる作品だと思う。わたしは語られなければ死んでしまう人びとに、いくらかの生と存在を与えることをしたい。 ――肉体が滅び、さらに記憶も滅びて、まっ暗闇に二度葬られてしまう、ということですか。 モリスン そう、二度葬られて……生き続けることができない人びとのことを――それがわたしの仕事だと。 ――なぜそう思うのですか。 モリスン なぜかしら。同じように考える人にはあまり出会わないし。 ――あなたは口承文学の伝統の最後の世代に属しているといわれる。あなたの作品を読むと、書き記しておかなければ消えてしまう、という切迫した感じが伝わると思う。あなたは作家としての自分を大切に思ってもいるでしょうが、さらに重要なことは、あなたが自分を道具だと考えていることでしょう? 集団的な過去、過去からの声を伝える媒介者として。あなたは他者にせっつかれ、衝き動かされている。 モリスン 全くその通りだと思う。強いられ、迫られている。いちどきに一つのことしかできない。さまざまな思いつきが頭の中を飛びかっているようなこともない。 ――彼らは正しいのかもしれませんね。 モリスン そう、正しいのかもしれない。新聞だとかいろんなものに欺かれてきたから、だから黒人の作家というのは、つねに略奪者であるような、また異邦人であるような気持になる立場に自らを置いている者たちなのよ。書くという行為について弁解がましくなる。 ――弁解がましくならざるをえないにしても、あなたはなお駆り立てられてもいる。 モリスン そう。駆り立てられている。何らかの役に立つようなものを書くためには、じっと耳を傾けることが必要だと思う。耳を傾けたい、と駆り立てらること。文化から祭儀や視覚的なシンボルが欠落してしまっているなら、つくってしまえばいい。なぜなら、言語の中にはすべてが生き残っているのだから。耳を傾け、かつて祭儀はどのようなものであったか、かつてシンボルはどのようなものであったか、それを聴き分け、見きわめ、指摘することが仕事だと思う。仮に祭儀的なものとして考えられてきたものからはシンボルが欠落してしまって、単なる代用品にすぎなかった。黒人の少年にとっての思春期の儀式はどのようなものだろうか? よくわからないことが多いのよ。彼らの音楽やスポーツにしても、金のためだけじゃない、求められているのはべつの何かなのね。 ――『ソロモンの歌』であつかわれた「飛ぶ」ことについて少し話してください。 モリスン 一九三〇年代、四〇年代には、かつて奴隷であった者たちからの聞き書が多くあるのだけれど、語り手の中には、飛んだ男の話を聞いたことのない元奴隷、あるいは奴隷であった者の子どもはいないのよ。少なくともわたしが読んだもののなかには。だれも彼もそういう話を知っていた。それに関する質問を受けて、「なに? 飛んだ話? なんのことかね?」といった者はいなくて、みな「ああ、そう、その話ね」といっている。そして、それはイカロスではなかったということ。アフリカへ飛んで帰ってしまった男たち、ただそれだけ。苦行僧の空中浮揚と同じもの。アフリカ人にその話をすると、彼らは「そう、そうだとも、そういうことはしょっちゅう起こるよ」というのね。 ――女が飛んだという話はありますか。それとも、いつも男ですか? 女は地に縛りつけられている、ということですか? モリスン いつも男なのね。でも、女にとっての大地は縛り、閉ざすものではないのよ。それは冒険なの。挑戦なの。巣を作りこもるという意味においてではなく、それは領分であるという意味で。地は世界の中心。アフリカの宗教では、地は闇で、子宮。キリスト教の伝統では、地は、そして胎内は地獄だけれど。最低の場所よね。アフリカでは、大地は女たちの領分であって牢獄ではない。 ――現在でも、そう実感していますか。 モリスン いまでは、といったほうがいい。以前はいつもそう感じていたわけではないから。でも、いまはそう思う。やっと。 ――わたしは、これまでインタヴューをした(黒人の)女の人たちと話していて、みんな寛容で率直に話してくれたけど、こわくなることもありましたが…… モリスン こわいことはいいことよ。こわいほうがいい。女の作家たちに会えば、彼女たちは、個人的と見える物語がじつは個人より大きなものであること、つまり集団的記憶、民族的記憶の存在について意識していることがわかると思う。ということはね、あなたの調べかたはオーソドックスじゃないということ。「なぜ、こんなにこわいのか」と問うとともに、恐怖を感じる責任も引き受けなくてはならないと思う。でも、それはできると思う。時間がかかったっていい。ゆっくりやって、値打ちのあることを拾い上げていけばいいのよ。 ――新しい言語がいるのです。 モリスン そう。でも、批評家にも新しい言語が必要なの。彼らには語彙がないから、いまだに普遍性がどうの、こうのなんていっている。トルストイやフォークナーに「あんたたち、もういい加減で地方的《バロキアル》なことばかり書くのはやめなさい」なんていった者はいない。少数民族はすべて、これまでだれもやったことのないようなことをやらなければならない立場に置かれている。わたしはすぐれた著作とは、つねに、特殊な、地方的な限定的なものだと思う。 ――あなたに与えられる最高の賞讃は、「トニ・モリスンは黒人でありながら、彼女の著作は白人の水準に達した!」とか。 モリスン その通り。まったくその通り。それほどいやないいかたがあるかしら。 |
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