『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』 藤本和子編

藤本和子による解説
 目次
  


1 過去を名づける


2 たましずめの歌

3 喉をつまらせている女たち

4 新たなる沈黙に声を

5 衰弱そして再生
『メリディアン アリス・ウォーカー』より

6 体験の存在空間


7 反悲劇

衰弱そして再生 『メリディアン』アリス・ウォーカー


   1 たましいと路線


  誰の寵児にもならぬがよい
  除けものでいるのがよい
  おまえの人生の
  矛盾を
  ショールのようにして
  身を覆うがよい
  石つぶてを避けるために
  からだが冷えぬように

 アリス・ウォーカーの詩集『革命的つくばねあさがおとその他の詩』(一九七三年)の中の「誰の寵児にもならぬがよい」という題の詩は右のような言葉で始まり、次のように終わっている。

  口にした
  勇気ある痛烈なことばのために
  数知れぬ者たちが死に滅んだ
  川岸で
  陽気なつどいをもつことだ

  誰の寵児にもならぬがよい
  除けものでいるのがよい
  死者とともに
  生きる資格をもて


 この詩は苦しい精神の、また肉体の試練のすえにメリディアンがようやくたどりついた姿勢をすでに凝縮させていた。小説として書かれた『メリディアン』が出版されたのは一九七六年だったから、詩作はそれよりおそらく四年ぐらい前のことになるだろう。この詩に凝縮された決意(あるいは生の態度というほうがよいのだろう)は『メリディアン』では、メリディアンとトルーマンの最後の会話にふたたび現れた。「きみが自分のなかの矛盾をかかえこんだまま耐えぬこうとしていることは、自分を革命家だと考える人間からはいつも嘆かわしく思われるだろうし、きみの異端の行為は伝統踏襲に汲々とする者たちを歯ぎしりさせるだろう」とトルーマンはいうが、その彼はメリディアンがそのためにいつもひとりきりであるしかないこと、誰の寵児にもなれないだろうこと(なぜならば、彼女は路線のようなものとは無縁に歩まねばならないのだから。イデオロギーの寵児になることは、時代の絶望や熱狂に直線的に応える路線を打ち出す者にだけ限られているのだろう)を想像して、ほがらかな気分になれない。
 トルーマンはいう、「きみがいつもひとりだと考えるのはいやだな」。ところが「それがわたしの良いところよ」とメリディアンはいいきるのである。そして「それに、わたしと同じようにいつもひとりでいる人間がいつの日か全員、川に集まるのよ。みんなで太陽が沈むのを眺めるの。そして暗闇のなかでわたしたちはきっと真実を知るのだわ」というのが、わたしたち読者が最後に聞くメリディアンのことばである。
 メリディアンがこのことばを発するためにはひとつの苦しい認識に達することが必要だった。殺さねばならぬのなら殺す、という自分自身に対してたてた誓いが不動ではないこと、まだ自分で誰かを殺せるという域には達していないと、その後も一時的なはげしい衝動に駆られるのでなければ、やはり殺せないのだろうと認めることは、彼女の役割は「未来に属していないということ」を受け入れることだった。
 それならば、それならば、とメリディアンは、直面したくなかったこと、それゆえに彼女をひどく苦しめ傷つけてきたことに、正面から向き合うことで、はじめてその先を考えることができるようになったのだった。「わたしは未来に属していないということ。わたしはいつも取り残され、新しい大通りのそばで昔の音楽を聴く。でもそれなら」と彼女は考えた。
 それならば彼女の役目は血を流すことをすすんで行う者たちのあとから歩くことかもしれない。そして血にまみれ、殺した肉体の臭いに喉をつまらせている者たちのために、懐かしい歌をうたってやることなのだ。
 そしてそういう歌こそは、それぞれの世代の経験によって表面的な姿を変えられながらも、究極的には人びとをつなぐ、彼ら自身の歌だった、といまやメリディアンはいえるようになったのである。
 そういう歌を持っている民族、ということについて、わたしは考えてみる。
 そして、わたしたちはそういう歌を持つのかと自問する。持っているとしたら、どれがそうなのだ? 何かを、これこそ求めていたものだ! と取りちがえてうたってしまった歌が、わたしたちをひとつにつないでいるのではないのか?
 メリディアンが「人々をひとつにつなぐ歌」といいきれるのを羨んでいうわけではない。そういいきれるようになるまでの道筋が抽象的なイデオロギーの葛藤ではないということに、びっくりさせられる。ウォーカーにしろ、メリディアンにしろ、宿題をやってきた女たちなのだと頭が下がるといったほうがよいのだろうか。
 それは近代的自我と歴史の対立というどんづまりの様式、結局は機能しえない様式に足をすくわれずにいることのできる力に対する敬意である。巨人に喩えられる歴史が、小さな悩む個人の前に立ちはだかり、個人の英雄的にしてつつましい努力を踏みにじっては驀進するというこぎれいな図式から自由であるということ。ウォーカーもメリディアンも自らをべつの思考様式において考えることができる。自らを集団的な記憶と想像力の流れの中にあるものとして感じることができるし、認識することもできる、ということである。真空から生まれ出たかと疑うような、近代的な自我意識感覚の不毛と遠くへだたった場所で、彼女らは歴史の連続を感じることができる。
 くどいようだが、ここでいう歴史の連続とは、差別されてきた集団の負の連続性ばかりをいうのではない。「外部の者に対して示される寛容」や黒人の教会や音楽が表す民族の特異性、苛酷な経験を生きたことによってのみ培われた文化ではなく、むしろ苛酷な試練にもかかわらず生きのびることのできた原動力は何だったのか、ということである。メリディアンが「わたしと同じようにいつもひとりでいる人間がいつの日か全員、川に集まるのよ。みんなで太陽が沈むのを眺めるの。そして暗闇のなかでわたしたちはきっと真実を知るのだわ」というとき、あるいはまたウォーカーがその詩作の中に「数知れぬ者たちが死に滅んだ川岸で」という表現を使うとき、それは彼女ら個人の特異なイメージの表出であるよりも、暗闇のなかに真実を知ることのできる民族の力を、川というものが喚起できる民族の記憶を語っているに違いない。

 メリディアンが「殺せる」と答えられなかったのは、メリディアンという個人の中で純粋培養された良心のようなもののせいではなかった。彼女は「自分が過去の何かにこだわっているのではなくて、過去の何かからしっかりと掴まえられているのだと感じていた」のである。彼女を捕えていて、「殺せる」といいきらせることができなかったものは、カメラを向けられて目をそらさずに見つめることのできる南部の年老いた黒人たちの記憶や、故郷の合唱隊でうたっていた若い娘たちの姿だった。メリディアンは娘たちの魂の清らかさを歌の中に実際に聴きとることができたのだったが、その娘たちが革命という大義名分のためであるにしろ、殺人を犯したら、音楽はどうなってしまうのか、と問わずにいられなかった。それは黒人が黒人でなくなること、アメリカの黒人の魂の特異性を打ちすて、なにかべつの者になってしまうのではないか、という問だった。のちに、メリディアンは公民権運動で殺された活動家の父親の姿を、教会で見かける。死んだ息子の命日にひとこと喋るようにといわれて、父親は招かれていたのだった。彼は深く愛していた息子を失い狂気となり、スピーチはいつも同じ三語「わたしの 息子は 死んだ」で始められた。そして数分間立ちつくした後に、席につれ戻される。メリディアンは変わっていないと思いこんでいた教会が、じつは深いところで変質していること、この父親を息子の命日に引きずり出してくる会衆は間接的に、彼の息子の死は無駄ではないことを、もし彼の息子が再生できるものなら、こんどは自分たちの命をかけてでもその命を守ろうと語りかけていることに気づく。そして、そのことで、彼女自身も急に息ができるように感じられ、じぶんの命をたっとび、それを生きぬき、死ぬまで闘うのだと考えることができるようになった。自分の命が自分に属するものではなく、民族に属するものだという思いが電撃のように彼女を打った。そこで初めて、彼女はひそかにこころの中で、目の赤い父親に、誰かがあなたの息子を殺す前に、わたしも必ず殺します、と誓うことができたのだった。黒人の共同体の精神や団結や正義の表現される場所としての教会の中に、すなわちふつうの人びとの中に、ある深遠な変化が起こっているのをみとめた時に、はじめて彼女は、暫定的であるにしろ、そういうことができたのだった。彼女は、その後結局は「まだ殺せない」といわねばならず、自分は未来に属していない者だから、そういう者たちのうしろからのこのこついて行って、殺人の血の臭いにむせる者たちに、懐かしい歌をうたってやることしかできないのかもしれないと考える。
 けれども、とメリディアンは思いあたるのだった。そういう歌がなくなったら、人びとは苦しみ、魂を失うことになるのだから、うたう者の役割は正当なものであろうと。だから、いつもひとりでいる無数のメリディアンたちは、いつか川岸に集まるのだ。民族の魂の核心をうたう者たちは、そのようにして民族の歴史の連続を生きていくことができるだろうと。

 ニューヨークの黒人活動家たちの集会で、メリディアンが「殺せる」といいきれなかった時に、彼女が沈黙の中に考えていたのは、「殺せるか、殺せないか」という問そのものでなく、ジョージア州にいる彼女の母親のことばかりだった。
 彼女はやはり歴史の連続性のことを考えていたに違いない。
 彼女の母親が体現していたのは、黒人の母親たちの歴史そのものだった。個として呼吸する空間も時間も持つことを許されなかった、いわばゴチック活字の「黒人の母親」の歴史だった。メリディアンはその母に生まれてくることで、母から静けさや自我ののびやかな発達の機会を盗み取ったのだという暗い罪悪感を抱いていたが、彼女自身は夫のエディーとの間にできた子どもを、育てることも殺すこともできずに他人にやってしまった。そこで彼女は黒人の母親の歴史と連続することを棄ててしまった。それが子どものために一番よいことではあったけれど、恐ろしいことでもあった。メリディアンの肉体の衰弱はそのことを発端として始まったのだった。罪の意識は子をよそへやったことに関わる道徳的な煩悶であると同時に、自らを女たちの歴史から切り落としてしまったことに対する深い戦慄であったのだろう。彼女の肉体の衰弱は、いのちの源泉(母)からの断絶を決行してしまった者の肉体がおとろえてしまうその過程を、具体的に現わしていた現象だったのではないだろうか。
 自らを集団の歴史の連続から切断する者は、独力で蘇生しなければならない。
 メリディアンの物語は、そういう女の衰弱と蘇生の物語である。
 ところでやはりメリディアンはひとりであってひとりではない。いつもひとりでいる者たちは川岸に集い、ともに日没を見るというイメージは、やはり民族の歴史の地下水のような連続性を示してくれる。結局、メリディアンの蘇生を助けたのは、そうした地下水の力だった。メリディアンが燃やさなかった最後の詩の一つにはこう書かれていた。――


  この世にはわたしたちを救う水がある
  友人がもってくる水が
  岩のような母や神は
  砂となって消えゆくことがあろうとも
  だからわたしはただひとりうち捨てられても
  いやし、再生する
  自分自身を


「殺せるか」という問に「殺せる」といえなかった時に、彼女が母親のことを、女たちの生との断絶のことを考えなければならなかったことは、だから偶然ではなかった。断絶することで裏切ったメリディアンは、この時ふたたび断絶の恐怖を直感していたのだろう。「自分が過去の何かにこだわっているのではなくて、過去の何かからしっかりと掴まえられているのだと感じていた」のを無視して、「殺します」と答えることは、重ねて民族の歴史の連続から身をもぎ離すようにすることではないかという戦慄であったのではないか。
 やがてメリディアンは「殺せる」と、こころの中で(一時的にでも)いえるようになるが、すると次の瞬間には「やはりできない」と思い、その時、その矛盾を積極的に引き受けるのだと決心することで、彼女の再生の過程が完結するように見えることの意味はなんだろうか。
「殺す」と「殺せない」という選択の両極からメリディアンは引き裂かれるが、そのいわば宙づり状態を引き受ける覚悟ができたところで、肉体は蘇生した。独房のような一軒家に転がっていた寝袋を出て行くことができるという文字通りのよみがえりである。それが可能であったのは、メリディアンを引き裂く対立的な問そのものが、抽象的なイデオロギーの対立ではなく、黒人の民族の歴史の必然から成立しているからに違いない。彼らの苦しみの歴史はいまや、一見したところでは昔のままの恰好で教会へやってくるふつうの人びとまでも、もう耐え忍ぶだけではだめなのだ(息子を失って狂気となった父親がそのことを思い出させる)という場所にまで、導いていた。そして、それと同時に、その彼らはいまだに音楽や祈りを変革への手段とすることのできる人びとでもあるのである。メリディアンの矛盾は民族の特異性の重層性に裏打ちされているのだった。
 だから、掘立小屋のような家に家具もなく住み、みの虫のように床の寝袋に寝ている禿頭のメリディアンがどのような経歴を持つ者であるかも知らず、また少しおかしいのではないかという疑いをすてることもなく、村の者たちが食料品を運んできたり、牛を連れてきて乳を搾ってメリディアンを養うことは不思議ではない。共同体はメリディアンの病いも、またたったひとりで、すでに時代遅れとなった方式の運動をやっていることも、私的(おかしないいかただが)な病いに苦しむ奇人ということだけで見ているのではない。彼らの文化の遺産の中には、その奇妙な女を奇妙な女以上のものとして直感することのできる能力がかくされているのだから。村の者たちはメリディアンの存在の精髄を知っていたのだ。
 彼女が、ひとりであってひとりではない、ということは、そういうことでもあったのだ。自分の肉体が母(黒人の母の歴史そのものを具現しているところの母)との愛の障壁になっていると感じていたメリディアンが、はじめ無意識のうちに自己破壊の作業にとりかかり、自らの肉体を軽視しはじめたのを思い出すと、崩壊していく個の肉体を再生させる原動力となったのが集団の歴史の必然性であったことを示してくれるこの物語の終末は、わたしたちのこころを動かすだけでなく、わたしたち自身に向けてさまざまな問をつきつけてくることを感じさせるのだ。

 個の特異性を、天からの贈りものであるかのようなそれを、だからといってないがしろにすることはできない。民族の歴史の連続を、個人はそれぞれに異なる特性にしたがって生きていくのだから。メリディアンの母は女たちの怒りや後悔や罪悪感や恐怖をそのからだに押しこめ、メリディアンから見れば「巨人」だった。だからメリディアンは母のすべてを許した。なぜなら、母が「すべてを耐えしのんで生きたからこそ、彼らすべて(子供たち、夫、家族、黒人全体)が、彼女が母の立場だったら、祖母の立場だったら、曾祖母の立場だったら、決して到達しえなかったに違いない地点にまで、到達できたのだから」。
 母を愛せないことは死を意味するほどだ、とメリディアンは思った。夢で、母が船から落ちかけるメリディアンを手すりから乗り出して支えている。あたりは危険にみちて、母は彼女を助けようとしている。メリディアンはその時いうのだった。「母さん、大好きよ。行かせて」母のような「巨人」になりえないと感じるメリディアンは父の娘だった。くらしも自然も奪われたインディアンの運命を思ってぼろぼろと涙を落とす父親、そして教会で美しい声でうたえる父親、世界から身を引き、間断ない死の意識とともに生きる父。メリディアンはその父に対していいようのないほどの近しさを感じる(けれども、メリディアンが注意をはらったのは母親に対してであった)。孤児のワイルド・チャイルドの姿をはじめて見た日、部屋にひきこもり、死体のように床に横たわって、あらゆる呼びかけに何の反応も示すことがなかったメリディアンは、インディアン博物館に展示されたインディアンの戦士の骨を見て「生きていることに吐き気をおぼえ」たメリディアンは、急に増水した溝に落ちて溺死した子どもの腐乱死体を「香り高い花」かと思わせるように抱いて役所へ出かけていくメリディアンは、父親の分身のようだった。そして作者は、メリディアンの父の祖母が無害ながらもやや気がふれている女とされていたこと、またインディアンの塚で精神の高揚と恍惚を経験してからは肉体の恍惚に基づかない信仰をすべて非難し、死ぬ頃には裸で庭を歩くのを好み、太陽だけをあがめたと書き、メリディアンと父がその塚をめぐって想像したことがらを野に出て話し合うことで、二人は彼女の曾祖母の奇妙な病いを共有していたのだった、と記した。しかしメリディアンは母を「黒人の母なるもの」の人格化された存在だと考えるから、母の願いや呼びかけに応じられないことで女たちの生の連続からずり落ちていく恐怖に、父親のようにひっそりと身を引いてくらすというふうにはいかない。母を愛せぬことは死であると、彼女は考えたのだった。父と母はたがいに距離を持つことで、共有できない部分をそのままにしておくことができたが、メリディアンと母という女と女の関係の中ではそれができない。メリディアンは自己の肉体を破壊してしまうことで和解が可能になるようにさえ感じたし、打ち降される警官の棍棒の下ではじめて、内面の喜び、解放感を味わうことができたのだった。
 それは断絶への贖罪のようである。
 メリディアンの病いにはさまざまな症状があった。まずある日目を閉じたら、青い色が見えた。それから失神するようになり、四肢に麻痺が起こるようになり、食欲は失せ、そのような状態の時に恍惚を経験した。どんどん衰弱してゆくメリディアンをそばで眺めていたアン=マリオンは、ある時『共産党宣言』を読んでいてふとメリディアンの方を見るのだが、その時メリディアンの頭から光が発しているのを発見したのだった。
 そのことを述べたくだりは、石牟礼道子さんがこの選集第三巻のヌトザケ・シャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』に寄せられたエッセイ「黒い神女たちの虹」の中の一部を思い出させる。

 連想することがある。八重山群島や久高島の神女たち、あるいは山岳宗教の修験者たち、そしてあの意志的なミイラ仏たちが、我が身に科した死とすれすれの厳酷な潔斎や修行のことを。
 俗界にまみれた魂を追い払って、その生身を神の来て宿る器とするために、彼らや彼女らは一様に荒行をする。絶食を続け、厳冬に絶えまなく水垢離を取り滝に打たれ続け、睡ることをも自分に許さない。ついに失神する寸前に至った時、選ばれた人びとに神がおとずれる。
 この瞬間に至って人びとは、躰も精神も非常に解放されて、かつて経験したこともない新しいエネルギーが自分の中に湧いてくるのを感じ、歓喜と法悦が躰じゅうに満ちるのを経験する。

 その後に続く部分で石牟礼さんは「この世の苦悩を感受できる資質者」、そして、「強力な霊力をそなえた巫女たちの個性をわたしたちは数々知っているが……彼女らが神に乗りうつられる前に、他者の絶望の依《よ》り代《しろ》となる者であったことは忘れられ勝ちである」などの表現を使われている。これらの言葉は、メリディアンの病いや資質を考える時に深い示唆を与えてくれると思う。石牟礼さんのいわれる女たちとメリディアンが全く同質だというわけではない。しかし、メリディアンの中の脆さが強さに逆転する瞬間の力学には、聖なる者の資質が見てとれる、とはいえると思うのである。エリ・ヴィーゼルが語る予言者エリヤがその時代時代のユダヤ人の状況によって姿を変えて繰り返し現われるように(ナチの時代、エリヤは強制収容所へ送られるユダヤ人の群れにまざって、包みをひとつ抱えて立っていたのだ)、六〇年代の黒人の聖なる女は禿頭に鉄道員帽を被り、戦車を見据えていたのではなかったか。
 でもここでは、聖なる、というような言葉にあまりこだわりたくない。一般化されてしまう危惧があるのだから。むしろ集団のたましいの連続性と一貫性が、集団のたましいの核が、きしまなければならない時代に、メリディアンはそのきしみをその肉体で生き通した、といおう。それは集団にとって、無視するにはあまりにも核心的なことでありすぎたから、トルーマンが最後にいうように、メリディアンの決意はいまや恐怖のうちにあらゆる者によって背負われなければならないのだ、ということになるのだ。
 トルーマンが自分ではそれと気がつかずにいつも結局メリディアンを探し求めていたこと、あるいはリンとの結婚生活が三年続いたあと、もう一度だけチャンスを与えてくれとメリディアンに懇願したのも、「黒いことは美しい」というスローガンが力を得てきた時代の趨勢や罪悪感のためばかりではなかった。彼はメリディアンの中に、自らの意識の核を嗅ぎつけていたのだ。それを打ちすててしまえば、自分のいのちも涸れることになるのを直感していたのだった。
 こころに調和を見出すことのできたメリディアンの頭にはふたたび毛髪が生えはじめた。病いはあらい去られて、出かける力ももどっていた。そのメリディアンが出発したあと、残された独房のような小屋の寝袋に入り、鉄道員帽を被るのはトルーマンである。いつもメリディアンを探し求めていたトルーマンがそのたびに出会うのは、予想していたメリディアンとは違うメリディアンだった。あんたのような無駄骨折りみたいなことをしてばかりいて、何かが変わるとでも思っているのかと問われた彼女は、「でもあたしは変われる。変わりたいと思うの」と答えたのだったが、トルーマンのその都度出会うメリディアンは、つねに変わりつつある彼女だったのである。それをひとりでやり通した彼女が残していった寝袋にトルーマンがもぐりこむ――彼はまさしく衰弱と再生の過程を文字通りその独房においてたどりなおすことになるのだ。けれども、村の人びとはその意味をふたたび理解するだろう。彼らは食料品を運んでくるだろう。牛を引いてやってきては、庭先で乳を搾って置いていくだろう。
 トルーマンもひとりであってひとりではない。彼は共同体の衰弱した一部分であるから、共同体はその再生に力をそそぐだろう。


  2 六〇年代


 わずか十七歳で子を産み、しかもすでに夫に置き去りにされていたメリディアンが、自分の生活圏の向こうには広がる世界の過去と現在があると気がついたのは、一九六〇年の四月中旬のある日のことであった、と作者は書いた。わたしたちが最初に出会うメリディアンはジョージア州の小さな町にいて、時はすでに七〇年代になっている(この時がトルーマンが最後にメリディアンを訪れた時ということになっているから、最終章の時間が冒頭にも示されていることになる)。そして、メリディアンがニューヨークで黒人の活動家たちから「殺せるか」と問われたのは、その時点から十年前のことである。そのとき彼女が知ったのは、もう流行らなくなったことは、そのまま打ちすてるがいい、という態度だった。トルーマンは六〇年代は革命を口にする時代であったかもしれないが、七〇年代にはもうそれはすたれたといい、彼はアメリカ建国二百年祭のための彫刻作品を彫ってさえいたのだ。
「殺せる」ということのできなかったメリディアンは、南部へもどっていった。「みんなのところへ戻って、みんなに混ざって生きるわ、公民権運動をやっていた人たちがしていたみたいに」と彼女はいい、すでに過去のものとなった投票者登録の運動をひとりで続けた。
 一九六四年に成立した公民権法によって、選挙権の保護、公共施設での差別禁止、雇用における差別禁止、教育における人種分離の禁止などが法律上で保障されることになり、一九六五年には選挙権法が制定され、選挙権をさらに保障しようということにはなったものの、現実には貧困は改善されず、差別も暴力も減りはしなかった。そうした状況下で「選挙権登録が過去のものとなった」のは、おそらくマーティン・ルーサー・キング牧師が彼の運動の焦点を公民権から経済問題に移行しはじめた頃、つまりワシントンに向けて「貧者の行進」を計画した当時、一九六八年とされるだろう。しかし、もうひとつの契機は、いうまでもなくそれより早い一九六五年のロサンジェルスの黒人居住区のワッツで暴動が起こり、また六六年にはニュージャージー州ニューアークでも暴動の火の手があがった時期に、アダム・クレイトン・パウエルやストークリー・カーマイケルなどが「ブラック・パワーだ」と叫んで、ブラック・パワーに関する全米会議が催されるようになった当時のことだろう。メリディアンが転換期として指しているのは、このブラック・パワー思想の胎動期のことである。おそらく彼女はSNCCとともに活動していたのだろう。SNCCは一九六〇年に、平和と兄弟愛を理想として、非暴力主義の白人・黒人合同の学生組織として黒人学生たちによって創立されたのだったが、公民権運動の草の根の組織づくりは目ざましい成果を上げていた。一九六四年には会員は最初の十六人から百八十人に達していて、その半数は白人だったとミシェル・ウォレスの『強き性、お前の名は』にはある。トルーマンの妻となったニューヨーク出身の白人の女性リンはそのひとりであったのだろう。白人学生の黒人の公民権運動への参加の動機がいかなるものであったにせよ、SNCCが黒人だけの全国組織「ブラック・パワーのためのスニック」(Snick for Black Power)となった一九六八年までは、表面的には白人と黒人の運動の蜜月時代だった。蜜月の時が過ぎ、黒人のことは黒人だけでやるのだ、となった時に、詩人のリロイ・ジョーンズは名を改め、白人の妻と彼女との間にできた子どもを棄てて、黒人の女性の「もとへ帰った」し、トルーマンはリンと別れた。トルーマンとリンの間に生まれた子どもは、街頭で白人の男に暴行され死んでいた。その頃トルーマンは黒人女性の裸像を描くようになっていた。彼女たちを新しい世界の戦士を産み、育てる、偉大な存在として描くようになったのだ(けれども、リンが子どもが死にそうだと知らせに行った時、彼の寝室にいたのはブロンドの女性だった)。
 運動に参加している学生の中で、とりわけ黒人の男性と白人の女性の結びつきが目立つようになった時、黒人の女たちの感情は複雑だった。メリディアンがいうように、母たちが白人についていうことから察すれば、彼女らは軽薄で意気地なしの怠け者で、創意のかけらもないような存在だ、とても羨むような相手ではないはずだった。それに対して、黒人の女たちは勇気もあり大胆で働き者で理想的だということになっていたはずだった。それなのになぜ、彼女らの男たちは白人の女とくっつくのか? 気でも違ったのか。そのような驚きと同時に、彼女らを深いところで傷つけたのは、「不当ではあったけれども、彼が彼女たちとデートしているという事実に、それも明らかにその肌の色に興味をひかれてしているのに、彼女は自分がつまらない女だといわれているような気がして、恥ずかしく思った」ことだった。しかし、公的には白人と黒人の結婚やその他の関係が流行らないものとされるようになると、たてまえに従って、トルーマンのような男たちは白人の妻を棄てた(白人の女は白人であることですでに拭いようのない罪がある、という論理で)。そればかりでなく、復讐として、黒人の男たちの中には、トミー・オッズのように白人の女性に性を強制する者もいた。純粋に暴力的な強姦というよりは、心理の弱みを利用した心理的暴力の強姦だった。リンは抵抗したり拒絶することは、すでに白人が黒人に対して犯してきた罪に上塗りすることであるように感じた。そして何よりも自分が「強姦」と叫ぶことで、黒人の男性に及ぼす影響をおそれ、個人的な贖罪として半ばしかたないように思ったのだ。しかしやがて、彼女は黒人の男たちが彼女と性行為をしたがるのは、彼女に対する愛からであって憎悪からではないと信じるようになったのである。混血児を生み、その子を白人に殺された彼女は、子の墓をまたぐようにして白人のところへ戻って行くことなどできないのであるから、そのような幻想だけが生きのびるために残された唯一の道であるのかもしれない。
 このように人種間の憎悪や軋轢のまっただ中に宙づりになってしまった存在について、アリス・ウォーカーは短篇も書いている。この選集の次巻短篇集『真夜中の鳥たち』に収録されることになる『Advancing Luna and Ida B. Wells』(一九七七年)である。主人公の黒人女性は、一九六五年の夏にアトランタで公民権運動に参加していたルナという忍耐強い受け身な感じの白人の女性に出会う。それから一年後、二人はニューヨークで同じアパートに住むことになり、「数週間もすると、わたしたちの関係はつねに相互の敬意にともなわれて、暖かく快適な友情に発展していった」のだが、その時ルナは南部に出かけていったあの夏に黒人の男性に強姦された、という話をしたのだ。書き手である主人公は、そのことを記すことについて苦しみを感じる。「黒人の男が白人を強姦した」という白人の言葉が、黒人の男たちを殺し、母や妻や姉妹を恐怖のどん底につき落とし続けてきたのではなかったか。ルナのいうことが真実であっても、何もいうべきでないのではないか。書けばそれは黒人の男たち、ひいては黒人全体に対して向けられる非難と攻撃と復讐となってはね返ってくるだけではないか? しかし、と作者は書いた――「黒人の男たちの中には、誰かを強姦するという言葉の意味を知らない者がいるようである。強姦を告発するために強姦の罪を認めた者もいるが、反逆の一部として、報復の一部として、強姦を受け容れてしまった者もいるのである。そのことをかえって自慢するようにさえなったのである」。
 しかしそう書いても、そう書くことの正当性になかなか自信が持てない。やはりこれは黒人の男たちを、黒人全体を売り渡してしまうことになるかもしれない。その恐怖で作者の気持は安らぐことがない。そしてルナの物語は結末のない物語である。あるいはいくつもの結末が可能なのである。「強姦」が障壁になっているかぎり、真実の物語はありえないのではないかと考える。つまり――

……ルナの強姦されたという言葉だけで民族全体が脅迫されることのないような社会を要求することができるようになるまで、あるいは強姦していないと主張する潔白な黒人の男性の抗議が偏見なく聞かれるような状況になるまでは……そのような社会が生まれるまでは、黒人の男たち、白人の女たちの愛の関係はつねに、外からも内からも、歴史的な恐怖と暴力の威嚇によって、毒されることになるだろう、そして黒人と白人の女性の連帯はきわめて稀にしか存在できないことになる。

 ウォーカーがこう書いたのは、『メリディアン』を著した数年あとのことである。その事実から考えても、彼女が『メリディアン』の中で、毒されることや孤立に追い込まれるかもしれない危険を承知の上で、あるいは黒人社会全体を危険に陥れるかもしれないことを承知の上で、一人の白人の女と黒人の男(そして男たち)の間に起こったことと重層的に取り組み、描こうとしたのはたいへんなことだった。黒い男に裏切られた黒い女性は、その黒い男を奪った白人の女性を理解しようとするばかりか、手をさしのべ助けることまでする。そして、黒い女は「きみに愛してもらいたい」という男に対して、「あたしはあなたを自由にしてあげたのに」と答える。彼女は男を(男たちを)許すのだが、男はそのことは理解できず、非難されている、と感じる。
 それは、すでに彼らの関係が崩壊してしまった後に、トルーマンがリンに「でも、おれはほんとうにきみを愛していた」ということが真実であるからかもしれない。友人たちの、あるいは時代の声が、白人の女がおまえと一緒になったのは、おまえが「自分の家の庭には生えないから味わってみたいマンゴーみたいなもの」だったからだとか、「白人全体の罪ほろぼしをしてただけのことさ」といい張るので、彼はリンを棄てただけであるからかもしれない。つまりほんとうに愛していたということがひどく不条理で、ありえないことでなければならないとしたら、ほんとうに愛していたのは罪悪ではなかったのか? ウォーカーの言葉通り、歴史の醜悪が心理の機構を歪め、彼と彼女の愛は真空の中にあることはできず、すべてが毒されてしまっているのだ。女と女の関係も当然同じ毒に染められている。
 そのような歴史的な条件の中で、ウォーカーは『メリディアン』の男たちと女たちの関係を押せるところまで押していったのだった。若い男と女たちがその関係を崩壊させてしまった過程を、スローガンや路線を取り去って見きわめようとしたのだった。六〇年代の「革命」の合言葉はすたれたかもしれないが、その時代はまたウォーカーのような作家を置きみやげにしてもいったのである。
 そればかりでない。やがて川岸に多くのメリディアンが集うことになるという、メリディアンの言葉も真実だ。「革命」の掛け声が低く聞き取れなくなったかのように思える状況の表面は、じつはその下に無数のメリディアンをかくしている。たとえばジョージア州のアトランタへ行ってみるといい。地域活動家と呼ばれる女たちが地味に持続的な運動を続けている。黒人文化研究所の運営、低所得者住宅住人組合の組織づくり、芸術家たちの組織化、選挙運動の資金集め、その他いろいろな方面に活動は広がっている。潜行している。ストークリー・カーマイケルに依頼されてアトランタへやってきて組織運動をやった女性もその中に混ざっている。
 アトランタからSNCCは去ったが、彼女は去らなかった。女たちだけではない。冒頭の献辞の中に名が述べられているジョン・ルイスは、SNCC創立のメンバーのひとりであったが、一九六六年にはしだいに戦闘的になった一派に委員長の座を奪われた。しかしその、「南部地域会議」を通して、選挙権啓蒙運動を続けた。
 矛盾を内に抱えたままで生きるのだ、と決意したメリディアンはアリス・ウォーカーでもあった。そしてメリディアンを終始とらえて放さなかったのが、黒人の過去と現在であり、魂と文化の遺産であったように、作家アリス・ウォーカーを衝き動かすのも、やはりそういうものである。そして彼女は驚くようなしなやかさと包容力をそなえた作家である。


  3 アリス・ウォーカー


 アリス・ウォーカーはメリディアンのようにジョージア州の小さな町で一九四四年に生まれ、小作人として働く両親に育てられた。彼女は『メリディアン』のサクソン・カレッジのモデルになったと思われるアトランタのスペルマン・カレッジへ行き、その後サラ・ローレンス大学へ行った。一九六八年に詩集『かつて』で詩人として登場し、一九七〇年、小説『グレンジ・コープランドの第三の生』の出版で作家として登場したが、すでに彼女はたぐいない表現力と認識力を示していた。ジョージア州の黒人の小作農夫であったグレンジ・コープランドは南部の生活の不毛にやりきれず妻や子を置き去りにして北へ行くが、北でも彼はいやしめられた暮らししかできなかった。ずっと後になって彼はジョージア州へ戻るのだが、そこでは彼の息子がその妻を殺害した罪で牢獄に入っていた。グレンジは息子の末子の娘を育てる決意をするが、それは彼にとって第三度目の、そして最後の機会だった。社会的な奴隷的身分から、精神の奴隷的状態から、自らを解き放つための、三度目の、そして最後の機会だったのである。
 一九七三年には再び詩集『革命的つくばねあさがおとその他の詩』が出たが、それには先に引いた詩の他にもやはり『メリディアン』の登場を予告する詩がいくつかあった。そのうちのひとつ「なぐさめ」という作品では、


  リルケがいったように
  問そのものを
  愛さなければならないのだ
  鍵のかかった部屋のように
  たからものがいっぱいだ
  そして わたしのめくらめっぽう
  手さぐりの鍵では
  まだ開けることができない


と彼女はいっていた。
 一九七三年には短篇集『愛と苦難』が出たが、その中に収められた物語の一篇、「ハナ・ケムハフの復讐」はすでに亡かったゾラ・ニール・ハーストンに「感謝をこめて捧げる」となっていた。「ハナ・ケムハフの復讐」という物語は、語り手が「ロジーおばさん」と呼ばれるヴードゥー師のところへ見習いにいっていた時に、ハナ・ケムハフという女性がきて、経済恐慌の時代に、小さな子どもを四人と「とりとめのない」目つきをした夫を抱えて飢えに苦しんでいた時、貧しい者に支給されることになっていた食料品をもらいに行ったが、食料品を渡していた白人の女に断わられた話をするところから始まっている。配給を担当していた青い目の黄色い髪の若い女は、ケムハフ一家の服装がよすぎる、おまえたちは飢えているはずはない、といったのである。じつはその服は、ハナの妹がニューヨークで女中をしていて、主人の白人一家の下がりものをもらって送ってくれたものだった。子は死に夫もやがて彼女を棄ててどこかへ行ってしまった。ハナはあの食料品を断わられた日の屈辱を忘れることができない。それは飢え死にしかかった体験を肉体が忘れられないのと似ていた。
 そこで彼女はあの白人女に復讐したいのだが、ということだった。
「ロジーおばさん」は呪術のための粉を示して、その女の何を破壊してもらいたいか、とたずねた。「にやにや笑っていたあの口」をやっつけてほしいとハナは答えた。
 ハナ・ケムハフは教えられた通り、毎日呪いの祈りをとなえた。見習いの語り手はその問題の白人女性の爪と毛髪と尿と便を少々手に入れてこいといわれる。彼女は女に会いに行き、かくかくの事情できたといって追い出された。その後間もなくハナは死んだ。そして白人の女性のほうは、語り手の訪問を受けてから一週間後には、二階の寝室で食事をとるようになったのだった。そして丹念に抜け毛を集め、切った爪は食べてしまい、便所の水は流さぬようになり、便は樽やビニール袋に入れて押し入れにしまうようになった。家の中の悪臭はたとえようもないひどさだった。そしてついに死んだ。
 この物語を書いた事情を、ウォーカーは「あなた自身の生を救うこと――芸術家の生におけるモデルの重要性」というエッセイ(『第三の女――アメリカ合衆国少数民族女性作家選』ホートン・ミフリン社)で説明しているのだが、簡単にいってしまうと、ウォーカーの母上から、恐慌時代に町へ政府の余剰食品をもらいに出かけて担当の白人女性に断わられた話を幾度か聞いていて、そのことを書きたいと思ったのだが、その話をする母上の表情はきまって、ひどく不思議なものになり、その白人女性は年をとり、耄碌して、ひどい不具になって死んだと、常日頃より首をのばし頭を高くかかげるようにしていうのだった。ウォーカーは母がその婦人に呪いをかけたのだと、白人の女性が死んだあとに発見されたとしたら、どういうことになっていたのだろうか、と考えた。
 ゾラ・ニール・ハーストンという一九〇一年頃に生まれ一九六〇年にこの世を去った黒人の女性作家との出会いは、この時のことだったという。(人類学者であり、作家であり、批評家であり、ジャーナリストでもあったハーストンについては、ここで述べる余裕はないけれど、この選集の最終刊に彼女の『騾馬と人』からの抜萃と、ウォーカーの「あなた自身の生を救うこと」を収めたい。)この出会いは重要な事件だった。これまで白人の文学から多くを学びつつも、決定的なモデルとなるものを見出すことができなかったウォーカーは、ハーストンとの出会いによって、継承すべき文学の言語と方向を、継承すべき伝統(それは長く打ちすてられ、否定され、絶版にされ、中傷されてきた)を見出したのだった。そして「ハナ・ケムハフの復讐」を執筆することが可能になった。

 あの短篇で、わたしはわたしの先祖の何人かが生きたその生の歴史と心理の脈絡を拾い集めた。そしてそれを書き記しているときのわたしは、悦びと力とわたし自身の連続性を感じることができた……しかも彼らは彼らの存在があるかぎり、わたしは独りきりではないのだよと熱をこめて伝えてくれるのだった。

 ゾラというモデルを発見したことで、母上の物語が闇に埋もれてしまわずにすんだのだった。物語を解き放つ言語が見つかったのだから。「物語が失われてしまったとしたら、母の話はいかなる歴史的基礎を持つこともできなかったにちがいない。いずれにしても、わたしが信用できるようなものは。ゾラがすでにわたしが歩いていた地面を完全に準備しておいてくれたということがなかったら、わたしはこの物語を書くことはなかっただろう」とウォーカーはいっている。
 そして確実にウォーカーは女たちのそればかりでなく男たちの過去をも名づけることのできる作家である。打ちすてられ中傷されてきた過去を再獲得し、持続する意志が明るみに出される。とりわけ『ミズ』誌に発表されたエッセイ「われらの母たちの庭を探して」に見られるように、解き放たれることのなかった創造性に押し潰されて、精神の浪費を生きた者たちに向ける洞察は深い。彼女は埋ずもれた記憶に名を、顔を与えることができる作家なのである。


『メリディアン』 朝日新聞社 1982年5月31日発行




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