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あまがえるが脚に跳びついたりすると若い女はまるで感電でもしたように驚いて悲鳴を上げる。こんな反応は何度もなんども、そこかしこで目にしたり、耳にしたりしたものだ。あるときは無関心とか無気力とがこころに宿っていたり、自分の心配事で胸がいっぱいだったり……。自分が自分自身を習慣化して麻痺させていくのだ。 この20年ほどぼくは旅をしつづけてきた。定住の地がないかのごとく歩きつづけたのだった。人が望むもののひとつが住むところつまりできるかぎりましな家屋敷だとすると、こうしたものはぼくのこころの中には全然といっていいほどない。とくにぼく自身、それが可能なことなのか、もしくはそのために努力を惜しまず奮闘すべきことなのか、50を越えたこの歳になってもまだいっこうに分からないでいる。 この世界はなんとまあいいところなのだろうか。どこもかしこもだ。スイスからサムン、チェンマイ、プレー、ナン、プーカー山、パーマン山、それにインド洋の小さな島々だってどこもみなぼくは通ってきた。自分の故郷であるかのように休んだり、寝たり、住んだり、ふざけ合ったり、悲しんだり、寂しがったり、しょんぼりしたり、意気消沈したり、希望を亡くしたり。そしてぼくの胸の内には線になって砕け散っていくうちあげ花火がある。 ぼくは楽しく、陽気に歌をうたう。ぼくは泳ぎまわり水に潜っては岩と岩の間で蟹や魚を捕まえる。ぼくは山中のジャングルや林の中を一直線に歩いていく。ぼくは終わりが来ないかのように旅をつづける。前途に何があるのかも分からないまま。 ほかにいったい何があるというのか。 地面を突き破って伸びてくる若木がある。おぎゃあ、おぎゃあと声をあげている赤子がいる。病い、憂い、意気消沈がそこかしこにころがっている。薄明かりの中でぐるぐる動いているのは眼球だけだ。あらゆることがやって来ては通過して行ってしまう。 夜明けにはこころをほがらかにしてくれることがある。小鳥の鳴く声。市場でにぎやかに呼び合う声。天秤棒で籠を担いできた物売りのおばさんたち。買われていくのを待っている商品のやま。笑顔とここちよく響く笑い声。金や銀の鐘のように。 ほかにいったい何があるというのか。 現在ぼくは見過ごさないようになった。生きていることの繋がり、こころくばりや愛、やさしさや助けあうことを。この世界には国境がいっぱいある。けれどもこのような繋がりにはそれを妨害する国境がない。なぜならそれは美しいことで、境界がないし、あらゆるものを飛び越えていける小鳥のように自由だからだ。それはぼくが望むこと、あなたが望むこと、すべての人が望むことであって、どんな言語で呼びかけ合うとしてもそれはひとつのことなのである。それは誰ものこころの中にあるからだ。そしてそこから出て行ってしまうことがない。 (スラチャイ・ジャンティマトン) |