目次
「ドクアライゴマイルー」序文
何の花だ?
窓
孤独
路傍の放浪者
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何の花だ?(ドクアライ・ゴ・マイルー)
1995年4月、ソンクラン祭(タイ正月)も過ぎたころ。。。(注・4月は1年で最も暑い季節)
風が多少でも吹いてくれるだけましだ、というような日の黄昏時。コンクリートの林立する完成された大都会へと変身しつつあるバンコクの一隅。ぼくは爽やかな風とともに名も知らない花のここちよさを感じていた。その花はゆっくりゆっくり散っている。花のひとつひとつがはっきりと見える。時折2、3個の花がいっしょに落ちてくる。もう何日もこのようにして散りつづけている。ぼくはいつもここに車を置いている。それで車の屋根やフロントガラスに載っているこの花を払い落とさないとならないから分かるのだ。まるで落ち葉が散るように散っているのに、それでも木の上では今までどおり美しい花を枝いっぱいつけているなんて、信じられるかい?
「あれは何の花だ?」と、ぼくは居酒屋の前にある駐車場の管理人に尋ねた。
「ブゲンベレアでねえが?」と、彼はイサーン(東北)方言で言った。それは答えているようでもあり、推量しているようでもあり、尋ねているようにも受け取れるものだった。彼ならこの花の名前を知っていてもよさそうだと、ぼくは思っていたのだが。
「なに、ブーゲンビリア? そりゃ違うだろ」ぼくは聞き捨てにできずにすぐに言い返した。ブーゲンビリアならばぼくの方がよく知っているという自負の念があった。
現代では田舎の人間にせよ都会の人間にせよ樹木の名前も花の名前もろくに答えられない者が多い。たった一種類の花の名前すら知らない者もいるくらいだ。
その花はまるで音楽のように一定のリズムで間隔をおいて散ってくる。あたかも死を迎えて枝を離れたものがゆっくり、ふわふわと落ちてくるようでこころが釘付けになる。花びらは極めて薄いしわしわの縮みの布のようで、色は淡い紫かそれともピンクがかった紫といったらいいか。そう、ちょうど日本の桜が4月に通りに面して枝いっぱい満開に咲いているのに似ている。ぼくは日本に行ったことがあるので実際この眼で見たことがある。けれどもいつのころからそう感じるようになったのか分からない。ぼくひとりだけがそう感じるわけではない。日本へ行ったことのない者でもそう感じている。
「さぐらの花だろよお」と、管理人は風のようにつぶやいた。
2、3日前からこの花のことがこころにひっかかっている。初めはスケッチしておこうかと思ったのだが、線を引いてみるとうまくいかなかった。ボールペンの状態が悪いのか感じたとおりの線になってくれないのだ。どうしてうまくいかないのかと、あせらずに理由を考えてみたが、それでもやはりだめだった。却って難しくなっていく。
それ以上自分に逆らう気もなかったのでこんどは坐って詩を書くことにした。けれどもまるで風の行方や日の光のようにとりとめもなく冗長になるだけで、これも意図したようにいかないのだった。
紙を広げボールペンを握る。短編でも書くほうがましだという気がしてくる。もう長いこと書いたことがなかった。気の済むまで書きたい。書いて書いて書いて、文字が鎖のように繋がってくるまで思う存分書こう。ところが手の速度は頭の回転についていけないから、鶏が爪でひっかいたような悪筆になってしまう。じきに筋肉が強張ってこってしまった。ギターを弾くようにはいかない。ギターを弾くときはリラックスしているのに、書けば書くほど痛くなりすっかりこってしまった。毎日書いていればこんなことにはならないのだろうが。
はじめは1本だけここに生えてきた樹なのかと思っていた。そう、ここにだけしかないたったひとつの樹。そんな特別な樹だとしたらなんともロマンティックではないか、と。ところがそうではないのだ。視野を遠くへ伸ばして見るとそこかしこにあるのが分かる。道路に沿って他の樹と交互に植えられている。その花は「天人の都、インドラ神の不滅の宝玉、インドラ神の偉大なる土地。。。グルンテープ」(グルンテープマハーナコン・アモンラッタナゴーシン。。。=バンコクのタイ語の正式名称)の大通りの歩道を埋め尽くすかのように散り頻る。どこもかしこもこのように散り頻っているのだとしたら夢のようだ。4月のバンコクは、だから黄昏てくるほど放っておけないような魅力にあふれてくる。
〈何の花だかわからない〉(ドクアライゴマイルー)、ぼくはこの呼び方が気に入ってしまった。無理をして本当の名前を探す必要もない。それにしてもこの花は道路掃除人にとっては余計な仕事を作ってくれる花であるのだろう。かれらはぼくのようにこの花を気に入っていないかもしれない。とりわけあまりきつい作業はしたくない、というようなけだるい朝には。。。
いまこの時ぼくは孤独にひたっている。つきつめてみれば自分ひとりしかいないのと同じである。誰とも口をききたいとは思わない。ただひたすらぼっと何かを考えていたい。ところが酔っ払った若者がしきりと話しかけてくる。ぼくはかなりな時間その男のはなしを聞いてやっているのだ。聞きたくない、と言ってしまえば角が立つ。それに男は自分のはなしを聞いてもらうのがひどく嬉しそうなのである。まあ、しかたないか、と自分にいいきかせる。
その男が手洗いに立つ。やれやれ自分だけになれるぞ。ぼくはするりと抜け出して表の空気を吸い込んだ。最前の席から抜け出せたことでえもいわれぬ喜びを味わう。そう、ここでだ、ぼくがこの文を書きはじめたのは。〈何の花だかわからない〉樹とは眼と鼻の先の距離に置かれたテーブルで。
花がまた散ってくる。散り止まないでいてほしい。重い頚木から解かれかつて経験したことのないような自由を得て、羽のように軽く、風がそよぐようにふわりと、ぼくの感性の中で明るく浮かび上がっている美しいもの。こころの中の種々の煩わしさが樹の葉が落ちるようにとれたとき、人はまた新しくなる。
携帯電話がまるでこうろぎが鳴くように勢いよく鳴り出した。買い換えたばかりの携帯だ。前のは盗まれてしまった。取り上げて電話を受けたが小さな声がわずかに聞こえただけで切れてしまった。何を言ったのか聞き取れなかった。まあいいさ、じきにまたかかってくるだろう。以前の番号は長く使っていたので知っている者が多かったが。。 呼び出し音が大きすぎた。。 ぼくは考えてから行動するというたちではないから、そのせいで後で痛い目に遭うことになる。電話をかけてくる者も多い。いいこともあるし、困ったこともある。しあわせな気持ちにしてくれる電話もあれば、通話を切りたくなるようなこんな電話もある。
「もしもし、お元気ですか? どうしておいでかと気にかけていましたが。ところでお金はいったいいつ返しに来て頂けますかね、もうずいぶん長くなりますが。。。」
だとか、
「おはよ〜、まだ夜も明けてないけどさ〜、金借りれないかなあ。。。」
だとか、
「ピー(年上の人を呼ぶ代名詞:注)ですよね。ぼく、チャリット。今ぼくエカマイにいるんだけど、バスターミナルのとこ。暑くてどうかなりそ。ピーは今どこよ。お金もって来てよ。バス代がないんだ。誰もいないし。暑いよ〜」
マイペンライ、マイペンライ(まあしょうがない、こんなものだ)。その花はまだ散り続ける。時の流れるままに、あるがままに逆らうこともなく。今、この場所で、ぼくは驚くほどこころが澄み渡っている。通りという空間を風が通り抜けていく。枝いっぱいに花を咲かせた樹がほの暗い光を受けて立っている。店の奥からは賑やかな音楽が聞こえてくる。そしてぼくは名指しがたい気分にひたりながら書きつづける。自分自身や想念の中に沈む何か重いものから解き放たれて、憑かれたように書きつづける。
少しずつ、すこしずつ。まるで散ってくる花のように。花は痛みを感じないのだろうか。ぼくはひたすらとりとめもなく考える。腕時計の針がわずかに動いて1時を指した。居酒屋もそろそろ店を閉めるころだ。客が腰をあげて三々五々出てくる。タクシーが何台か停まって客待ちをしている。千鳥足で出てくる女性も何人かいる。容貌も美しく身なりもいいのに。
友人がひとりここへ来ることになっている。ただ何時に来るのかがわからない。ここに坐って文を書き始めたのもそのためである。ぼくはここを動きたくない気分だ。酒を止めて1ヶ月あまりになるし、煙草を止めてからはもう10年近くになる。それでも居酒屋に坐るのはやめられない。ほかにどこへ行けばいいのか分からないからだ。ときおり、ここが自分の家ではないかしらん、と思うことさえある。
携帯がまた鳴り出した。ぼくはペンを置く。彼女に違いない。。。
「ああ、今用事で手がはなせない。ロットがチェンマイから来ることになってる。まただだをこねて困らせる。怖がることなんかない。そりゃちっぽけなもんじゃないか。先に寝ていなさい。待たなくていい。。。」
花が散ってくる。散ってくる。何の花だか分からない花が。。。 客が次々店を出てくるので駐車場の男は忙しくなっている。あちこちから出ようとしている車の間を走り回って車を出易くしてやるという、ちょっとしたサービスをしてはチップをもらうのだ。
本当のところぼくは2、3ヶ所に行くと言ってあったのだ。それで1日中気をもんでいたのも事実。まるで約束を守らなかったからだ。分かってもらえればさいわいというもの。気懸かりでもやむおえない。
夜中の1時をもう20分も過ぎている。携帯がまた鳴り出した。
「すまない。行けないんだ。どうしても用事をすませないとならない。ほんとうは行きたいんだよ。でも行けない。気にしないでくれよ。いいだろ、ほんとすまないと思ってるよ。おれがいけないんだ。ごめん。ほんとにごめん」
花が8個いっぺんに散ってきた。この8個の花とともに気に病んでいたことがすっと落ちて行ってしまった。薄くて軽い花びらが落ちるアスファルトのその場所は、固く荒々しいところでもあり、同時に若い娘の肌のように柔らかくてはなやかなところでもある。それもしなやかな娘の。
最後の酔客たちが店から出てきた。5、6人もいるだろうか。その中のひとりは嘔吐したばかりで出てきたのではないだろうか、嫌な臭いが漂ってくる。彼らはアスファルトの上をしきつめている花を無神経に踏みつけている。ごつごつした硬い汚れた靴で。これからどこへ行こうか、どうやって行こうか決めかねて大声をあげて騒いでいる。ぼくは彼らが一刻も早く立ち去ってくれるのを願いつつペンを走らせている。
やっといなくなった。そして店の電灯も消えた。ぼくは文を書き付けていたノートを閉じ、ボールペンをしまった。最後の部分はまだこころの中にあって書き終えていなかった。けれどもこころの中にひっかかっていたことがらはおおかた消えていた。ここに坐っていろいろ思い巡らしたことで気が晴れた。その日ぼくはあまり他人のいうことをきかなかった。自分のしたいことをしていた。たとえばこの文を書くことでしあわせになったこと。それよりもっとしあわせにしてくれたのはこの樹、この花、と出逢ったこと。
何の花だか分からない……、そう、何の花だか分からない……。
(1995年作品)
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