『スラチャイ・ジャンティマトン短編集』 荘司和子訳

目次    


「ドクアライゴマイルー」序文

何の花だ?

孤独

路傍の放浪者

路傍の放浪者


4月のバンコクの都心部では目を開けていられないほどの強烈な日差しが照りつけている。彼は自分の顔や身体がまるで揚げ物をしている中華鍋の底ででもあるかのようにべとべとの不快感をあじわっていた。荒れた手で彼は額や頬、顎の下の汗をしきりにぬぐっていた。なかでも猛烈に暑いのが日に晒された公衆電話ボックスの中である。

硬紙の表紙で一辺が2×3インチくらいの小さな赤い手帳の中には10軒あまりの電話番号が書かれている。彼は硬貨を挿入口に差し込んでから番号を回した。大粒の汗がいくつも頭部の毛穴から溢れ出してきて左右のこめかみを伝って両頬にひろがった。

「いらっしゃらないのですか、あぁそうですか。けっこうです。じゃあまたかけますから」
彼はまた硬貨をひとつ挿入した。そしてわずかに震えている左手の中の電話番号を眼で追う。なんてひでえ暑さだ、と彼は声にはならない愚痴を言う。そのとき電話ボックスの脇にこどもが2、3人来て待っているのが目に入った。

彼はべとべとでそのうえ1982年のバンコクの(注:排気ガスの)粉塵がこびりついた指で何とか希望のありそうな電話番号をたどっている。話中だ。仕方なく受話器を置くと次の番号をまわそうかとためらった後、すっとボックスを出た。出たところで待っているこどもたちに頷いて交替していいよという合図を送った。

それから彼は行き交う人びとで込み合った歩道を歩いていく。誰も彼もそれぞれにすることがあってここを歩いている人ばかりだということは明らかなのだが。ときには命のあるものが絶えてしまったようにも思える。色とりどりの歩くキャンディーではないかと。

数日前聞いたことばを突然思い起こす。
「ぼくは手も足もない丸いものになりたいよ。食べることも知らず、寝ることも知らず、あんなふうにゆらゆら揺れているのさ」
ボールでもなくゴム風船でもなく、揺れている丸いものか。。
そいつは太陽でなくて何だ。彼はもう何日も太陽といっしょだ。そうだ、日差し、4月半ばのバンコクの都心の強烈な日差しだ。

彼は通いなれたオフィスのようになった電話ボックスにまた身をすべらせて入った。目に入るのは電話機の赤い色だけである。色は目障りだし、かたちももうあきあきしている。もしもこいつが話したり考えたりできたら、きっとこう言うのではないか、「ぼくもあなたにめちゃくちゃあきあきしてるんですよっ!」
彼はまた硬貨を差し込む。今回は電話機の腹の中を通り過ぎてきてジャランという音とともに尻の穴から出てきてしまった。。。あぁ、またか。ろくでなしめ。何回もくりかえされ彼は腹の中でどついた。

きちんと食べてくれようとしない機械に彼はなんとか食べ物を食べさせようと何回も努力した結果、ついに機械の方が根負けしてしまった。彼はやっと番号を回す。やった、と彼はわずかに微笑をもらす。ところがそうではなかった。
「はい、かまいません。後日でもけっこうです。。はい、はい」

少しは歩を休めるべきではないかと彼は思った。余りにも暑いのだ。その瞬間どこの誰も彼ほどには暑がっていなかった。周りを見回してみる。ある者は小さな屋台の前に立って平然とものを売っている。ある者はエアコンのある建物から連れ立って出てきていかにもしあわせそうに笑みを浮かべている。ある者はタクシーから降りるや強い日差しの中を走り抜けてオフィスに駆け込んだ。ある者はやはり歩いてはいるが、靴は清潔だし、身体のどこをとってみてもきれいだ。ある者は彼よりひどいかっこうをしてるが彼ほど暑がってはいない。

彼は自分を離れて周囲の人びとに関心を向けた。それはほんのわずかな時間にすぎなかったが。それから彼は街路樹のために囲ってあるコンクリの四角い枠に腰をかける。ささやかな日陰が味あえるような樹陰を選らんで腰掛けるのだ。そこでは一銭の硬貨も入れる必要はない。苦痛がおそってくるとしたら、それは排尿をもよおすときである。何枚もの硬貨を使ってはじめて膀胱は作業を終えることができる。飲み食いすることは排泄の悩みを伴うので忌避できないものかと思う。

汗がいくらかひいて、胸の辺りのじりじりする暑さがおさまり、しわくちゃのタバコをついに手元まで吸い尽くすと、やおらその日やっておくべき用事を思い起こす。それから彼は立ち上がると再び歩き始めた。

こんどは少しはラッキーかもしれない。前方にある電話ボックスは誰かの家の軒先にある樹の陰の下にある。彼はまるで親しい友人に出逢ったかのようにさっとその中へと身を投じる。と、何か書いたものが眼にはいった。引き裂いたボロ紙によろけた字で「故障」と書いてあるではないか。

チキショー! と、彼はこころの中で呪った。なんでまたこうなんだ! かまうもんか。先に行くっきゃないさ。先に行くしかないだろうよ。なんでここでまごまごしているんだ!

足が焼けつくように熱くなってくる。向こう脛の毛に沿って汗がしみていくのが感じられる。おまけにズックの靴で足の小指が靴擦れを起こしているようだ。ゴムぞうりからこれに履き替えていくばくもたっていなかったので、靴擦れというのはあまり経験がなかった。ちょっとはきれいな足でいたいものだ、と思って靴と靴下を手に入れたのだったが、こいつ1本の歯もないくせに足の指に食いつくとは想像したこともなかった。

すぐ先のかんかん照りの下にある電話ボックスには先客がいる。女性が受話器に額を寄せて何かささやいている。好きなようにやってくれ。日ごとにひどくなっていくこの社会で、人はなにがしかのしあわせを持つべきだ、と彼は思う。右手で受話器を握り左手には小さな財布を握りしめている。赤い口紅。赤いパンツ。電話機も赤。さて、自分にも赤はなかったかと頭のてっぺんから足の先までを調べてみる。ひとつだけあった、電話帳の表紙が赤だ。ただしそれはシャツのポケットの中だ。。。色が何だ、どうでもいいことだ。時おり自分の考えに反駁することがあるものだ。まるで針で自分の皮膚をつっつくように。

さあついに俺の番だな、と彼は思った。彼女は目の端で背後の彼をチラッと眺めやることすらしなかった。自分とは違う。俺だったら待っている人がいれば遠慮する。うまくかからなければ、ひと言声をかけるか、お先にどうぞ、といった視線やしぐさで次に待っている人に譲るものを。

彼はまた番号をまわしていた。お話中だ。背後を見やったが誰も待っていない。それで再度硬貨を入れてかけなおす。その行為を何度か繰り返した後、ようやくはなしができる。
「10日ですね、。。。はい。。。はい。じゃあ午後遅いめに伺います。ではこれで失礼致します」
その日は4日であると新聞で見て記憶していた。あと6日だ。6日後に1件の面接予約がはいった。うん、まあ少しはましになったか。

歩道橋の時計が1時15分を指している。彼には時間はまだ山ほどある。事実、時間はあり余っているのだった。事務所だって道路のそこかしこに門戸を開放している。諸物価高騰の時代にかかわらず料金だって適切というもの。たった1バーツで仕事ができるのだから。わずかな投資でできる個人営業をしているのだった。彼が売っているのはこころと頭からでてくるもの。彼のように痩せこけて骨と皮みたいでは肉体労働を売ることはできそうもない。手の指の爪、足の指の爪、も売れないだろう。血液ですら売れるかどうか疑問だった。

彼は日々何かを売ることで食いつないでいる。買うために売る。あたかも食べるために排泄し、排泄するために食べるが如く。

あと1回電話すれば今日はもういい、と思った。連絡すべきところがもう少しあったのだった。いい結果がほしければもっとたくさんかけるべきなのだが。何故なら電話番号が彼の希望を繋ぐものなのだから。電話番号こそ彼がひたすら時間と忍耐を費やしている希望だった。強烈な太陽と風にさらされた簡易生活者の。

「や〜、おまえか。。。ラジャダムナン通りで行き倒れさ。暑くて死にそうだよ」
3時である。相変らずかんかん照りの電話ボックスの中、ようやく友人のひとりと電話が繋がった。
「おれのことを心配してくれることはないさ。女房こどものことを心配してやれ。おれはこの100倍もつらい経験だって生きてこられたんだ。おまえに来てもらうなんて必要はないよ」
「ま、ほんとに死んじまったら這ってでも会いに行くよ。這うこともできなかったら、そのときはそのときさ」
「おれにその番号を急いで教えてくれ」
彼は知りたいことを伝えた。
「ありがとよ。あ〜、もう1回たのむ、ん〜。。ん〜。。ボールペンがだめだ、よく書けない。ん〜、繰返してくれ。よしっ、これでいい。じゃあまた会おう」
彼はここで電話番号を3件ふやした。小さな希望をふくらませる番号。

日がいくらか傾いてきた。行き交う人も次第に増えてきている。さまざまな車輌がまるで闘いを挑んで吠えかかる野獣たちの如く荒々しい騒音をたてて行き交う。今日はもう電話で気をもむのもこれでおしまいだ。彼のささやかな個人営業が、あまりついていたとはいえない1日を終えたにすぎない。何枚ものコインを使い、ひたすら消耗した。そして彼がこの苦労をねぎらうために立寄った食堂で注文したのはミネラルウォーター1本と氷だけであった。

夕暮れが近づいていた。休みをとってしかるべき時間になったようである。彼の歩みは徐々にのろくなっていった。汗がほとんで出ないですむようなのろさ。。に。そのとき彼の脳裏に東北の澄んだ渓流とニッパヤシの小屋の風景がふいに浮かんだ。そのしあわせな記憶がその日の消耗と疲労感を拭い去っていくのを彼は感じた。

大型店のショーウインドウの前を通りがかった、そのとき、彼は不可思議な何かを見たような気がして思わず立ち止まって眼をとめた。それは色も形もさまざまなデザインの電話機だった。華やかな女性たちが並んでいるようにも見える綺麗な模様を彫りこんだものもあるし、棚の高いところには銀色や金色のものが置かれている。それに。。金製の電話機もある。。こいつじゃないだろうか、金余りの家のバスルームに置いてあるとかいうニュースになったのは。

どれもこれも綺麗で可愛くて、手にとって使ってみたい、大事にしたい、という気を起こさせるような高価な商品ばかりである。彼らは空調の効いたショーウィンドウの中に収まっていて、彼のなじみの古ぼけた赤い電話機などおめにかかったこともない。あいつらはこんな場所に並べられるものではないのだから。

決してそんな日は来ないのだ。あいつらは誰もが利用するただの公衆電話にすぎないのだから。






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