水牛的読書日記 シンガポール旅行編

アサノタカオ

7月某日 はじめてシンガポールにやってきた。チャンギ国際空港から送迎の車で宿に入る。午後6時を過ぎても、街はまだ明るい。宿のそばにローカルの屋台村のような場所があり、そこでマレー料理(牛の内臓を煮込んだルンダン)を食した後、夜の街を少し散歩。気持ちのいい夏の風が吹いている。

7月某日 街のあちこちで見かける背の高い木はレインツリーだろうか。一羽の黒い鳥が枝に止まって、甲高い声で鳴いている。

今回シンガポールに来たのは振付家・ダンサーの砂連尾理さんによる「とつとつダンス」のプロジェクトに参加するためだった。「とつとつダンス」とは、砂連尾さんが、京都の老人ホームに入居するお年寄り、施設のスタッフや地域住民とともに行うダンスのワークショップと公演で、現在はシンガポールやマレーシアなどの認知症ケアの現場でも活動を展開している。砂連尾さんの著書『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)を編集した縁で、東南アジアのツアーに同行し、現地でのミーティングやダンス公演にオブザーバーとして参加することになったのだ。

朝、立派なモスクのそびえるイスラム教徒のコミュニティにあるアリワル・アート・センターへ徒歩で向かう。ここはもともと由緒ある中華系の学校で、学校の移転に伴い、美術関係者や演劇関係者の共同アトリエのような施設になった。政府の補助があり、家賃は無償だという。砂連尾さんたち日本側の「とつとつダンス」の制作チーム、シンガポールのアート・プロデューサーであるオードレイ・ペレラさん、応用演劇の俳優マイケル・チェンさん、通訳のMさんの参加するミーティングに同席する。「とつとつダンス」のことは別の機会に書くこととして、ここではそれ以外の旅の出来事を記しておこう。

午前と午後のプログラムを終えて、夜はアート・センター近くのベトナム料理店へ。香草たっぷりのフォーとタマリンド・ジュース。目の前にカラオケスナック風の店があり、シンガポールのおっさんたちが女性に囲まれて昭和の演歌のような歌を気持ちよさそうに歌っている。店を出ると、曇り空を稲妻が走っていた。びゅっと吹く風が冷たい。スコールがやってくるかもしれないので、急いで宿に戻る。

7月某日 早朝に目覚め、川沿いの公園を散歩した。とんでもなく巨大なガジュマルを仰ぎ見る。ここは赤道直下、熱帯モンスーン気候の地なのだ。

午前のプログラムを終えて、昼はオードレイさんの案内でインド料理店へ。名前を忘れてしまったが、バターで焼き上げた厚めのパンをベジタブルカレーとともに。黒い鳥がお客さんの残したカレーを啄んでいる。昼食後、チャイナタウンに行くというKさんについていくことにし、バスに乗ってしばし街歩き。いわゆる中華街っぽさはあまりなく、現代的な超高層ビルと20世紀初頭の古い2階建ての建造物が同居する不思議な景観だ。ホン・リム公園には「スピーカーズコーナー」と書かれた看板がある。市民が政治的発言を行うことのできる場所らしいが、使用には警察の許可が必要で、看板の上には警察の監視カメラ。これがシンガポールの現実か。東京あたりよりは涼しいと感じていたが、日中に歩いているとやはり暑い。

Kさんと別れて、チャイナタウンにある草根書店(Grassroots Book Room)を訪問した。中国語書籍専門の本屋さんで、おしゃれなカフェも併設されている。日本文学&韓国文学の翻訳書のコーナーも。女性のスタッフもお客さんも中国語でおしゃべりしている。店先の黒板には〈閲讀即自由〉。すばらしい哲学だ。

この界隈には独立系書店がいくつかあり、近くにあるlittered with booksも訪問。2階建の英語専門の書店で、コミックの本も多い。こちらのお店では女性のスタッフ同士が英語でおしゃべりしていて、外国人観光客と思しきお客さんも英語で話している。近所には多くの韓国料理店が立ち並び、韓国語書籍専門の本屋さんもあった。

何軒か訪ねた書店で個人的に最も心惹かれたのは、BOOK BARだ。可愛らしい絵本や児童書が並ぶ入り口から奥に進むと、インデペンデント・プレスの本やZINE、詩集のコーナーがあり、カフェも併設されている。エッセイの本とZINEを1冊ずつ購入。魅力的な詩集もいろいろあり、滞在中にもう一度訪ねたい。日本でアルフィアン・サアットの小説『マレー素描集』(藤井光訳、書肆侃侃房)を読んだので、詩人でもあるという著者の詩集も見つけられるといいのだが。

BOOK BARで購入したFaction Pressの本とZINEは、内容もデザインもかっこいい。Faction Pressは東南アジア発のエッセイとノンフィクション(かれらはmicro-narrative とも言っている)の紹介に力を入れる出版社で、シンガポールのセックスワーカーの語りを集めたアンソロジー本など出版している。購入したZINE『UNDERTOW』の創刊号のテーマは歴史、記憶、悲嘆。宿でLAWRENCE YPILの短い散文「Untold Stories」を読んで感動した。胸に響いた言葉にアンダーラインを引く。「語れないことについて、語ることを拒むことについて。言葉がなく、何も言えないこと。言葉を拒むから、何も言えないこと」「美は私たちよりも長く生きる。私たちの肉体よりもゆっくりと日々を進む」

連日やや食べ過ぎのような感じがあるので、夜から断食。しばらく水だけを飲むことにする。

7月某日 夜明け前の早朝に目覚めた。シンガーポールについてから地に足がつかない感じが続いている。気持ちが宙に浮いて、いつまでもふわふわしている。だから何を見ても聞いても、何を食べても、いまひとつ現実感がない。理由ははっきりしていて、初日に友の訃報を電子メールで受け取ったからだ。メールには彼女のノートを写した写真が添付されていて、そこには「時々会いに行きます」と見覚えのある手書きの文字が自分宛のメッセージとして記されていた。時々、なんて言わないで、今でもいいじゃない。今回の旅は、彼女の美しい魂と同行二人。その存在を親しく感じ続けるために、地に足がつかないこの時間が必要なのだと思う。