夏の1日だけ涼しい日に

高橋悠治

手書きの楽譜に戻ろうとしているが、手が思うように動かなくなっている。友達が、手書きの楽譜の見本を見せてくれたり、シャーペンや消しゴムをくれたりして、道具も揃っているのに、わずかなきっかけから始まるはずの作曲に取りかかれないで何日かがすぎた。

毎年夏は秋のために準備することがいくつかある。8月の終わりまでには、手を動かすことに慣れるだろうか。

こうして字を書くときも、漢字の書き順を忘れているからコンピュータに頼っているが、音のフレーズを音符を使わずに書くやりかた、図形楽譜の実験は、1960年ごろに試したことはあったが、おもしろいものではなかった。

記譜法のソフトは30年くらい使っていた Finale がこれ以上の開発をやめ、サポートもなくなるから、Muse Score に切り替えることも考えたが、新しい記譜法ソフトを覚えるのは簡単にはいかない。コンピュータが保存している Fnale も他の機械には移せないから先がない。

手書きに戻るのは、これまで何世紀も作曲家たちがやってきたこと、今もやっていることだから、少しの手習いで戻れるとは思うが、それと新しい作曲とがこの暑い時期に重なるのは、予想外だった。

コンピュータの場合は、音符の記号を打つわけだから、同じ記号でも手で書く感触とは違うだろう。次の記号に移る感じも同じではないはず。昔一度だけ演奏した湯浅譲二の Cosmos haptic という図形楽譜の曲があった。今は「内触覚的宇宙」という日本語題名が付いているらしい。ピアノであれば、鍵盤の手触りの感触は、耳でその結果としての音を聞く感覚とは違うけれど、その音を聞きながら音符を見るのと、そのとき手に感じる感覚もまた違いながら、それらを同じものとして扱うことで、作曲も演奏も、また即興さえも成り立っている。

こんなことを書いているより、手を動かすのが先だと思いつつ、もしかしたら作曲も、音のイメージを書き留めるより、五線紙の上で手を動かして、音符の形を書くところから始まるのが自然だろうとも思いながら、こうしてコンピュータで字を打っている。