水牛的読書日記 2022年11月

アサノタカオ

11月某日 待望の八巻美恵さんのエッセイ集『水牛のように』(horobooks)を読む。エッセイのことばはもちろん、装丁と造本もまたすばらしい。世界中の日本語読者に自慢したい一冊だ。カバーの白地にちいさく輝く、木村さくらさんの画。あこがれの気持ちをかきたてられ正方形に近いA5判変形のやわらかな本を開くと、パノラマの風景が広がるように気持ちのいいことばの風景が広がる。見開きページの余白は指をかけるのにちょうどよい具合で、ページの区切りで文の流れが止まらないよう、本文の版面をノド側にすこし寄せているのも自分好み。

本を読み、ごはんを食べ、友人と会い、土地を歩き、何かを思い出す。大きな歴史の力と大きな自然の力に、ここのところ人間社会は翻弄されっぱなしだが、八巻さんの本に記された日々の「愉快」は動じない。「愉快」はいついかなるときもそこにある、まるで嵐の後の野原に立つ水牛のように。この本について書きたいことは、まだまだたくさんある。

11月某日 蔦哲一朗監督の映画『雨の詩』を試写で鑑賞。地方の自然生活をテーマにしたスローシネマ。屋久島に暮らした詩人・山尾三省の詩「火を焚きなさい」がモチーフのひとつになっていて、三省さんのアニミズム的世界観とも響きあう作品。印象的な読書のシーンもある。自分が三省さんの詩集やエッセイ集の編集を担当したことからご縁が繋がり、僭越ながらコメントを寄せた。

《陽が昇り、陽が沈む。雨が降り、雨がやむ。人と人、人と自然がただともにあることがむき出しにされる森の静けさの中で、言葉や書物はどんな意味をもつのだろう。読むことではじまり、読むことで終わるこの美しい寡黙に満たされた映画を観ながら、遠い未来に人類が消滅して家々が崩れ、野ざらしにされた詩集のページを、風が翻していく光景を想像した。アサノタカオ(編集者)》

ロードショーがはじまり、東京のポレポレ東中野であらためてこの映画を観た。冒頭、山の家に降りしきる雨の音。室内で窓ガラスを見つめ、流れる水を通過する光のゆらめきを無言で受け止める主人公の顔。劇場でこの音と光を体感しただけで、もう感無量だ。物語の世界をふと離れ、映画自体が川そのものになり、夜そのものになる瞬間がたまらない。野に帰ろうと志向しているシネマ。上映後、蔦監督やスタッフの方とことばを交わした。

11月某日 山尾三省の妹で北海道・小樽在住の詩人・長屋のり子さんからお便りと本が届く。土橋芳美さんの詩集『ウクライナ青年兵士との対話』(サッポロ堂書店)、長屋恵一さんのエッセイ『風呂場で読むドストエフスキー』(響文社)。

11月某日 詩人のヤリタミサコさんからお便りが届く。貴重な詩集をお譲りいただいた。高橋昭八郎『ペ/ージ論』(思潮社)。

11月某日 ダンテ『神曲』(三浦逸雄訳、角川ソフィア文庫)を「地獄篇」から少しずつ読んでいる。長編叙事詩の古典に身構えていたが、読み始めるとなんのことはない、これはイタリア版「地獄八景亡者戯」ではないか。意外と落語みたいでおもしろい。

11月某日 大学の授業で、「私の好きなもの」をテーマに個人メディアをつくる課題を出した。編集者としてうれしい気持ちになるのは、お願いしていた原稿が届いたとき。昨晩から学生からの課題が続々と届き、大変だなと思うけど、やっぱりうれしい。

11月某日 作家・孤伏澤つたゐさんの『浜辺の村でだれかと暮らせば』(ヨモツヘグイニナ)を読む。地方の漁村を舞台に、村で生きる漁師の男「おれ」と都会からの移住者との関わりをテーマにした小説。かれらの同居生活を淡々と描写する語りから、ともにあることの希望がじんわりと感じられる。読み応えのある作品だった。

『浜辺の村でだれかと暮らせば』は、自然に囲まれた土地を舞台に地元民と移住者の同居生活をモチーフにしている点で、蔦哲一朗監督『雨の詩』と通じるものがある。

11月某日 文学フリマ東京35にサウダージ・ブックスとして出店。お隣りは文学ユニット「フラクタル山羊座ロンド」、石川ナヲさんの『Taiwan 行きたい日記』『東京・千葉・台湾日記』を購入。今回は新刊案内を兼ねたフリーペーパー、文筆家の大阿久佳乃さん『「じたばたするもの」のはじめに』を配布した。「大阿久さんのファンです」「かっこいい冊子ですね」という声を複数の人からいただいた。

本の販売のほうはさっぱりだったけど、会いたかった人、読みたかった本とのよい出会いがたくさんあってうれしかった。植本一子さん、小倉快子さん、佐藤友理さん、高田怜央さん。作家・鹿紙路さんの新作、東アフリカの歴史と現在が交差する長編百合小説『征服されざる千年』、これは驚異的な作品だ。

帰路、会場で入手した『私たちの”解放日誌”』(gasi editorial)を読み、ハートに火がついた。安達茉莉子さん、いよりふみこさん、小山内園子さん、渡辺愛知さんの熱き韓国ドラマ本。パク・へヨンの脚本(そして名優たちの演技)に心がさらわれたドラマ「私の解放日誌」、もう一度観なければ。自宅でSNSをチェックして、「あの方もあの方も出店していたのか!」と気づくことも多く、早めに店じまいしてブースを見て回ればよかったと反省。次回はお客さんとして参加しようかな。

11月某日 文学フリマ東京35で出会った一冊。出版社で営業を担当する橋本亮二さんの『手紙を書くよ』(十七時退勤社)を読む。赤阪泰志さん、鎌田裕樹さん、佐藤裕美さん、佐藤友理さん、中田幸乃さんとの共著。「あの人のことを思うとき、光がゆっくりと明滅する」と冒頭に記す橋本さんのエッセイ「光あれ」、そして元書店員の佐藤裕美さんとの往復書簡を読んだだけで胸がいっぱいに。

11月某日 昼前に自宅を出発、新横浜経由の新幹線のぞみで新山口へ。温泉などに寄り道せずに駅前のホテルに投宿し、デスクに校正刷を広げて粛々と編集の仕事をする。旅の道中では、哲学者・三木那由他さんの『会話を哲学する』(光文社新書)を読む。文学フリマ東京で入手した黒田編集&皆本夏樹さんのZine『三人が苦手』VOL.1には、この本の読書会の記録が掲載されていた。三木さんが分析する会話の世界は、まるで奥深く複雑な森のよう。

『会話を哲学する』のなかでは、高橋留美子の漫画『めぞん一刻』を題材に「もういないひとに向けて」というコミュニケーションを分析する箇所に特に胸を打たれた。そして「コミュニケーション的暴力」としての「意味の占有」を学ぶ我が身が痛い。ことばで人を傷つけた無数の思い出が身に残っているからだ。

うちの高校生に借りた『会話を哲学する』を読んでいろいろと痛い思いを味わいつつ、それでも人間が交わすことばの豊かさに開眼した。小説や漫画の会話をこれほど注意深く読み解いたことはなかったので、あたらしい発見の連続。読後には、ヤマシタトモコ『違国日記』(祥伝社)など、漫画をもっと読みたくなった。よい本だった。

11月某日 新山口から取材チームでレンタカーに同乗し阿東へ。島根・津和野に近い山間の地の牧場を訪問。牧場の入り口、真っ赤に紅葉したジャイアントセコイアの並木道が美しい。牛舎や加工場を見学しながら、牧場主からお話をうかがう。できるだけ輸入飼料にたよらない放牧に移行し、土地の恵みで牛たちを育てようとしている。「生き物とともに喜びと苦しみを共有する」ということばが心に残った。うっすらと霧がかかる周囲の山を眺めながら、牧場産のチーズケーキをいただく。絶品。

11月某日 Zine『三人が苦手』VOL.1は、『会話を哲学する』の読書会の記録のほか、インタビューやレビューなどすべての記事が読み応えがあった。なかでも夜燈さんのエッセイ「”ひとり”を”自分”と生きる」がとてもよかった。書かれている内容にも共感したし、文章そのものに惹かれるものがあった。

11月某日 新山口駅の構内には壁面を緑化した「垂直の庭」があり、壮観。新幹線に乗りこみ広島で乗り換えて新大阪へ移動し、夕方、地下鉄を使って大阪の書店を駆け足でまわる。まずは緑地公園駅の blackbird books へ、ついで画家の nakaban さん作の看板が目印、淀屋橋のCalo Bookshop and Cafe へ。フリーペーパー『「じたばたするもの」のはじめに』を届ける。

そして最後に本町、はじめての toi books へ。茨木のり子訳編『新版 韓国現代詩選』(亜紀書房、若松英輔・斎藤真理子解説)など、韓国文学の翻訳書が勢ぞろい。大前粟生さん、町屋良平さん、そして店主の磯上竜也さんの共著『全身が青春』(toi books)を購入。磯上さんのエッセイのことばがとてもいい。

電車を乗り継いで京都・蹴上の隠れ家的な定宿へ直行し、熱いお風呂に浸かり、本を読む。blackbird booksでみつけた、文筆家の佐久間裕美子さん『2020-2021』(wAiwAi)。新型コロナウイルス禍の中、アメリカで暮らす個の視点から書かれた社会批評エッセイ集。「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」をめぐる読み応えのある文章もいくつか収録されている。差別という暴力に抗い、つよくやさしく生きるマイノリティの人々から託された声に変革への希望の兆しを見出す佐久間さん。「楽観的すぎたかもしれない」と本書の「はじめに」で自省しているが、状況に悲観しながら、なお「意志による楽観主義」(エドワード・サイード)を持ち続けることの大切さを僕はこの本から学んだ。

佐久間さんはニューヨーク州北部、森の中の「山の家」で1年半をすごしたそうだ。まるで『森の生活』のソローみたい、そして『市民的不服従』のソローと『Weの市民革命』の佐久間さんの思想の間には通じるものがあるのではないか、なんてことを、窓越しに紅葉の景色を眺めつつ京都の「山の家」で思う。

11月某日 お昼に大阪・高槻で大阿久佳乃さん、デザイナーの納谷衣美さんと駅前の喫茶店で打ち合わせ。大阿久さんのアメリカ文学・海外文学エッセイ集『じたばたするもの』は来年1月サウダージ・ブックスから刊行予定、よい本に仕上げよう。フリーペーパー『「じたばたするもの」のはじめに』を渡し、記念撮影。二人のいい笑顔が、最高のお土産。

11月某日 旅から戻ると、詩人あする恵子さんのノンフィクション『月よわたしを唄わせて』(インパクト出版会)が届いていた。ていねいなお便りもいただいた。本書のサブタイトルには、「“かくれ発達障害”と共に37年を駈けぬけた「うたうたい のえ」の生と死」とある。急逝した「のえ」さんは、ほかならぬあする恵子さんの子どもだった。本のずっしりとした重みにためらいつつ、後回しにできないような気がして、覚悟を決めて読み始める。軽々しくわかったような顔をすることが許されない悲痛な体験がつづられているが、著者のことばに正面から向き合いたい。

11月某日 金石範小説集『新編 鴉の死』(クオン)の見本が届いた。編集を担当。デザイナー松岡里美さん(gocoro)の緊張感ある装丁がすごい! 済州島四・三事件を通じて歴史と人間の真実に迫る。日本語文学史に孤高の足跡を残す一冊、書物に手をふれて尊い重みを確かめた。

11月某日 今年2022年に編集を担当した3冊の文学の本。

 李良枝『ことばの杖』(新泉社)
 金石範『満月の下の赤い海』(クオン)
 金石範『新編 鴉の死』(クオン)

仲間とともに、こうした本作りの仕事に関わったことを心の底から「誇り」に思う。

ちょうど30年前、大学に入る直前に偶然の導きで「在日朝鮮人文学」に出会った。作家の李良枝が亡くなった年だった。のちに挑戦した金石範の大長編小説『火山島』には歯が立たなかった。でも無性に惹かれるものがあった。地方都市で語り合う友も教えを乞う師も見つけられない中で、ひとりで読み続けた。

読み続ける中で少しずつ学びを深め、多くの出会いを経験し、やがて読書は必然に変わった。はじめは孤独だったけれど、ふりかえれば読むことの旅の途上で本当に多くの先達、仲間が道を示してくれた。こうした人たちの同行がなければ、こうした「誇り」を抱ける人生の現在地にたどり着くことはなかっただろう。

李良枝や金石範の文学のことばは、これからも自分自身の「生きる」をつよく支えるものになると思う。だから自信をもって堂々とおすすめしたい。いまこのときにも、30年前の自分と同じように文学の扉の前に立つ人がきっといるはず。限りある時間の中で、次の読者のために扉を開ける仕事をしたい。

11月某日 早朝、コーヒーでも飲みながらちょっとページでもめくってみようか、ぐらいの軽い気持ちで読み始めたある本の解説で知った「事実」に、大変な衝撃を受けた。ある本というのは今年2022年に復刊された、詩人・茨木のり子が翻訳・編集をしたアンソロジー『新版 韓国現代詩選』、解説は韓国文学翻訳家の斎藤真理子さん。

1990年に刊行されたこのアンソロジーの旧版は何度も読んだことがあるのだが、新版に収録された斎藤さんの解説エッセイ「時代を越える翻訳の生命」を読み、自分の文学観が大きな地殻変動をおこす音を聞いたような気がする。「翻訳は、揺れている地面どうしの間に橋を架けわたすもの」。斎藤さんが記す「事実」をめぐる慎重な省察のことばに終日、心が立ち止まっていた(詳細については『新版 韓国現代詩選』をお読みください)。

読むこと、読み続けること。ことばを受け取るという営みもまた、安住の地ではなされない終わりのない検証の過程、旅なのだな、と思い知る。朝は動揺しておろおろしながら『詩選』を読んだので、もう一度、解説のことばにゆっくり目を通し、背筋を伸ばした。文学を読むものとして、日本語を生きるものとして、ここには素通りせずに考えなければならないことがたしかにある。途方もなく大きな宿題をもらった。